第五十五話 祈るな!願え!! 4/6

「すまない」

 メリドは本当にそろそろ限界だった。苦しそうなその顔が逼迫した状況を現していた。エルネスティーネはいいえ、という風に首を横に振った。そして、もう少し近くへ自分の体を寄せるよう、上を向いて上体を乗り出して自分をぶら下げているティアナにそう指示を出した。

 長身のアルヴであるティアナは軽いアルヴィンを楽々とぶら下げてはいたが、揺れているエルネスティーネの振り幅が大きくならないように慎重にマントにかける力加減を合わせなければならなかった。その状態で正確にエルネスティーネをメリドに近づけるのはさすがに苦労していた。断続的に訪れる地震が地面を揺らし、その作業をさらに困難にする。せめて地割れでできた亀裂がきれいに垂直に割れていればエルネスティーネに壁に手を突くなりさせて安定させることも可能だったのだが、内側に抉れたような壁面ではそれもかなわなかった。

 ダーク・アルヴの体力や筋力は肌の色が違うだけで同型種族のアルヴィンと同じくファランドールの四種族の中でもっとも弱い。もちろんメリドは兵士長と言うだけあって相当に体を鍛えていたし、その辺のデュナンよりはよほど力が強いダーク・アルヴだと言ってよかった。しかし、さすがに片手だけで全体重をそう長い間支えきれるものではない。

 彼の握力の限界は突然訪れた。

 メリドの左手の力が尽きたのは、ティアナが間合いをはかりながらメリドの方へエルネスティーネを寄せようとした時だった。

 断続的に揺れていた地面が、ひときわ大きく揺れた。メリドの握力はその衝撃に耐えられなかったのだ。心の中で(あっ)と思った時にはすでに左手は壁の突起を離れていた。手を伸ばすエルネスティーネが息を呑む音が暗闇に聞こえたような気がした。

(ここまでか)

 メリドが思わず目を閉じた時だった。細い枝状のもので下から背中が思い切り押し上げられたような衝撃を受けた。ほんの数センチ落下した後、メリドの体はその下からの力によって自由落下を一端中断したような状態になったのだ。そこに今度は横合いから柔らかいものがぶつかってきたと思う間もなく、体が何かに強く縛られるような感触があった。


「やったぞ!」

 頭上から声がする。

 メリドは目を開けた。

 落下していない。それどころか目の前に誰かがいる。暗くてよくはわからないが、柔らかくそして暖かいものが自分の体にしっかり巻き付いている。

「メリドさん、はやく私に捕まってください。私、そんなに力が続きません!」

 その柔らかくいい匂いのする拘束物は、エルネスティーネだった。

 力のないエルネスティーネがたとえメリドの腕をつかんだとしてもその体重を支えられるわけがない。彼女はそれをよくわかっていたからこそ、両手両脚を使ってメリドの体全体を絡めるように抱きついていた。

 目をきつく閉じ、歯を食いしばりながら自分を力一杯拘束している少女のその表情を見て、メリドは瞬間的な思考停止状態から我に返った。

 間に合ったのだ。

「失礼する」

 メリドはそう断る前に、すでに動く方の左腕をエルネスティーネの背中に回して絡めるようにしてしっかりと抱え込んだ。握力はもうなくなっていたが、何とか力になれるはずだった。

 その左腕の中の金髪の少女の小さな体は細く華奢だった。ティアナによってゆっくりと引き上げられていく感覚の中でメリドはしかし、かつてこれほど頼りになる感触があっただろうかと感じていた。

 そして、とても暖かいと思った。

 メリドはもちろん生涯この時のことを忘れなかった。そして後に自分の命を助けた小さなアルヴィンの少女が実は一国の王女だった事を知ると、エルネスティーネやネスティ、あるいはエリーという名前をその後生まれてくる子や孫はおろか親族にも強要し、多くの者のひんしゅくを買ったという。


「なぜ、メリドは浮き上がったんだ?」

 引き上げられたメリドが一息つくのを待ってから、アキラはあの落下時におこった不思議な現象についてファルケンハインに尋ねた。それは当の本人であるメリドが一番疑問に思っていた事だった。

 下から細い棒のような何かで強く押し上げられるような感触。あれはエルネスティーネの手足ではなかった。エルネスティーネは押し上げられた後にメリドを捕捉したのだ。

「とっさにやったことだ。「エア」が解除されていて助かった」

 ファルケンハインはそれだけを言うとこちらもホッとしたように、横にいるエルネスティーネの頭を撫でてやった。ティアナの腕の中でへたり込んでいる小さな英雄に。

「私……もっと……体を鍛えなければ……ですね」

 息を上げながらそういうエルネスティーネに、ティアナは優しい声で答えた。

「そうですね。これからは毎日私が鍛えてあげましょう」

「ええ。でも……今日はもう、ちょっとムリ……かも」

 小さな英雄はさすがにお疲れの様子だった。

 アキラはその様子を見てかつて無いような穏やかな気持ちになるのを感じながらも、頭の中ではファルケンハインの言ったことを冷静に分析していた。

 相手の戦力分析は初歩の初歩だ。少しでも多くの情報を得ておくに越したことはないのである。

「ファル殿は風のフェアリーと伺っていたが、なるほど空気を固形化できる能力を持っているという事か」

 ファルケンハインは素直にうなずいた。

「俺の力は、元来どれだけ強く、しかし薄くするかが勝負とも言えるものだ。今回はそれを逆にできるだけ太くしてみたが、もし失敗していたら奴さん、今頃は亀裂の底に叩き付けられる前に体が真っ二つになっていたかもしれないな」

 そしてそういうとメリドの方を意味ありげな顔でみやった。

「生きていてくれて良かった。失敗しているとさすがに夢見が悪かったと思う」

「いや……」

 メリドはまだ誰にも礼を言っていないことに気づいていた。助け上げられた後は呼吸を整えるのと、骨折した右手も込みで思い切り抱きついてきたネスティのお陰でわき上がる痛みに耐えるのに精一杯だったのだ。痛みがなんとか治まってみると、礼を言う時機を逸してしまったようで居心地の悪い状態にあった。もはや敵ではないとはいえ、今更素直に謝って礼を言うのもなんとなく面はゆい気がして逡巡を続けていた。そこへファルケンハインが水を向けた格好になった。

「感謝している」

「礼なら」

 アキラはそういうとティアナに抱きかかえられているエルネスティーネの方を指さした。

「あのお嬢様に言うんだな」

 メリドは改めてぐったりとしているアルヴィンの少女に目をやった。

「いえ、こんな時は助け合うのが当然です。メリドさんだって……きっとそうしていましたよ」

 今まで使ったことがないくらい、思い切り力を入れた事もあるだろう。だがそれよりも人の生き死にに関わるきわめて責任重大な仕事をやったことで体中から力が抜け、さらに当初は痙攣もおこしていた。だがそれも幾分落ち着いたようで、エルネスティーネは少し元気な声を出してメリドが何か口に出す前にそう言った。


 メリドは思った。

 俺が逆の立場だったら敢えて助けただろうか。

(いや)

 十中八九助けなかったに違いない。

 だが、エルネスティーネはさも当然と言った風に誰でもそうするものだと簡単に言ってみせたのだ。

 誰でもができるわけではない。

 今までの言動から察するにエルネスティーネはおそらくは世間知らずのお嬢様なのだろうとメリドは思った。だが、そのお嬢様の世間知らずともいえる無防備な確信に満ちた考えが今自分を救ったのだという事実をもてあましていた。

「俺にもその子と同じくらい、いや、少し歳上の娘がいる」

 感謝の言葉の代わりに、メリドはそう言っていた。

「ハネっかえりな子で、実現できないような正論ばかりを大人たちにぶつけてくる困った娘だ。名前はルーチェと言うのだが、あの子ならそちらのお嬢さんと同じ事をいうのだろうな」

 メリドの声は大きくはなかったが、その閉鎖された岩でできた空間では誰の耳にもよく届いた。一同はセレナタイトの淡い光に照らされたダーク・アルヴの戦士の顔をじっと見ていた。それは一同が初めて見るメリドの穏やかな表情だった。

「良い名ですね」

 エルネスティーネはそう呟いた。

「会って話をしてみたいものです」

 メリドはそれには答えず、話を続けた。

「ルーチェの名は、マーリン正教会のやんごとなきお方から授かったものだ。今はなきいにしえの言葉で『優しい』と言う意味だそうだ」

 そこまで言ってから、メリドはエルネスティーネに訪ねた。

「ネスティという名に、何か謂われは?」

「はい」

 エルネスティーネは返事をすると、ゆっくりと答えた。

「父がずっと昔に飼っていた鳥の名前です」

「え?」

 反応したのはティアナだった。だがそれをすぐにエルネスティーネは目で制した。

「鳥の名前?」

「ええ」

 エルネスティーネは続けた。

「ちっぽけな鳥でした。それでも心優しい父はその鳥をたいそうかわいがっておいででしたが、ある日かごの扉を開いて逃がしてしまわれました」

「逃がした?」

「なぜだと思いますか?」

 思わぬ問いかけにメリドは戸惑った。エルネスティーネの真意はわからない。だからここは思いついた事を素直に答えることにした。

「可哀想だと、思ったのだろう」

 しかし、予想に反してエルネスティーネはうなずいてみせた。

「そうかもしれません。カゴに入れたままだと飼っている大きな猫に取り殺されてしまうと思ったのかもしれません。でも、どちらにせよ父はその鳥を大事に思っていたからこそ空に帰したのだと思います。その鳥の名前がネスティだったそうです」

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