第五十話 エア 5/5

 エイルはゆっくりと精杖の構えを解いた。

「今は《二藍の旋律》でいい、《群青の矛》」

「はい」

「それから普段でもラウっちではなく、ラウさんだ。何度言ったらわかる」

「申し訳ありません、《今は二藍の旋律》。しかし……」

「しかし? いや、《今は二藍の旋律》ではなく《二藍の旋律》だ」

「恐れながら我が主に申し上げます。以前はそうでもありませんでしたが、今の主は『ラウさん』より『ラウっち』の方がお似合いではないかと思うのですが、《二藍の旋律》」

「いままでも、これからもずっと『ラウさん』だ」

「一つのご意見として、不承不承ではありますが、承りました」

 無表情なファーンだが、最後の言葉は確かに「いかにも不承不承」といった顔をしながら喋っていた事を、エイルは見逃さなかった。

 感情がないわけではないのだ。

 さらに、ファーンの言った言葉にも引っかかっていた。《二藍の旋律》の雰囲気が以前と今とでは変わっている、と確かに言っていた。

(何なんだ、この二人は?)


「エイル、ここは冷静になれ。気持ちはわかるが、堪えてくれ」

 すぐ後ろで声がした。

 見ると、小さなテンリーゼンにもたれかかるようにしてアトラックが近づいていた。相変わらずテンリーゼンはこういう状況でも無表情極まりない。

 テンリーゼンを見てしまうと、同じ無表情でもエイルには賢者であるファーンの方が百倍も暖かみのある人間に感じられて不思議な気分になった。

「無茶言うなよ、アトル。カレン殺しがここにいるんだぞ?」

「俺だってはらわたが煮えくり返るほどだ。カレンを抱きかかえてルドルフの元へ返しに行ったのは俺なんだぞ?」

「だったら!」

「今そこでソイツを殴り倒してカレンが戻ってくるのなら、俺ももちろん喜んで加勢するさ」

「でも」

 アトラックは脚に受けた傷の苦痛で顔をゆがめながらも、ムリに笑って首を横に振って見せた。

賢者二藍の旋律は話をしに来ただけだと言っている。争いに来たわけじゃない」

「そんなこと、信じられるか!」

 吐き捨てるように言うエイルに、今度はラウが答えた。

「賢者が賢者に対して、ましてや自分よりも上席だと解っている相手に対して嘘などつきません」

 その言葉を受けて再びラウの方に顔を向けたエイルに、聞き慣れた優しい声が届いた。

 その声はたしなめるように言った。

「話を聞きましょう、エイル君」

 顔を上げるとラウ越しに今まさに上体を起こそうとしているアプリリアージェが目に入った。

「リリアさん!」

 エイルは慌てて走り寄ると、その小さな体を抱え起こした。

「ありがとう。私はもう大丈夫です。それよりアトルの言うとおり、今は冷静になりましょう」

 アプリリアージェは落ち着いた声でそう言って、いつもの微笑でエイルを見ていた。エイルがとっさに観察した限りでは、大事になりそうな外傷はないようだった。頭からの出血もなく、右腕もちゃんと肩と繋がっていて、血を吹き出していた裂傷はもうふさがっていた。

 その様子をみてエイルはほっとため息をついた。

「よかった……」

 ただ、スカルモールドの爪が引っかかったのだろう。着ている服が大きく裂け、上半身のうち右半分の肌が露出している状態だった。それに気付いたエイルは慌てて目を逸らすと急いで自分の上着を脱ぎ、それを無言のままアプリリアージェに差し出した。

「ありがとう」

 アプリリアージェはエイルのその姿を見てニッコリ笑うと、素直にそれを受け取った。

 彼女にとっては少し大きめの服をゆっくりとした動作で羽織りながら、エイルに静かな調子で言葉をかけた。

「恥ずかしながら失神してしまって少し記憶が飛んでいますが、見たところ我々は賢者二藍の旋律に窮地を救われたようですね。それが今ここで起こった事実だとまずは認識すべきです」

「でも、それとカレンの事とは別問題です」

 アプリリアージェが無事とわかって、エイルはまたラウに対する怒りがこみ上げてきた。だが、そのエイルの肩に手を置いたアプリリアージェは

「同じです。賢者の論法で行くなら賢者が誤って関係のない市井の人を殺めた場合、それは賢者の法でこそ罰せられるべき事。いつもの賢者エイミイならそう言うはずですよね?」

 言い聞かせるようにそう話しかけた。

 賢者がエイル・エイミイではなく、すでにエルデ・ヴァイスだと知っているアプリリアージェが敢えて「賢者エイミイ」と強調して言った事に、もちろんエイルは気付いていた。それはアプリリアージェが極めて冷静であるという証拠でもあり、エイルに対して同じく冷静になれ、と言う「言葉の中にあるもう一つの意味」を含んだものだという事も。

「でも」

「それにエイル君はともかく、我々アルヴの血を持つ者はたとえ相手が親の敵であったとしても、このような場面に際してまずは賢者二藍の旋律に礼をする事こそ矜持と言うものなのです。あなたが《二藍の旋律》の話を聞けないと言っても我々は聞かせて貰う事になるでしょう。つまり……」

「つまり?」

「それでもあえて今、戦意のない賢者二藍の旋律に殴りかかり、こちらから争いに巻き込もうというのなら、エイル君はここにいる我々三人の軽蔑を受ける覚悟が必要です」

「え?」

「おそらく色々と聞いて知っているとは思うのですが、我々アルヴ族はあなたたちから見れば滑稽なほど名誉を重んじる種族です。シルフィード国民であれば、なおさらその気質は強い。そして私達は賢者エイミイの、自らの矜持に対する真摯な態度にこそ共感しているのですよ」

 微妙に回りくどいいい方ながら異世界フォウの人間であるエイルはエルデを通じてこの世界の事を学習している事を再確認させ、ラウ達の手前そのエルデの現名(うつしな)を出さず、賢者エイミイとあえて呼んでいる事はエイルにもわかった。

 自分たちの種族の特性まで引き合いに出し、激高しているエイルを牽制してみせたアプリリアージェは、完全にいつもの冷静さを取り戻しているようで、すでに事態を把握し、状況の掌握に向けて頭脳を高速運転しているようであった。

 アプリリアージェはいったん言葉を句切った後で、エイルににっこりと笑いかけて、短く続けた。

「私たちを失望させないで下さいな」

 エイルはその言葉を聞くと、固めた拳を地面に思い切り打ちつけた。

「くそっ」

 アプリリアージェの言うことは理性に語りかけるもので、それは認めざるを得ない。だが、理屈はわかっていても、それを飲み込める人間ばかりとは限らない。エイルはそこに自分とアプリリアージェとの間に横たわる大きな溝のようなものを見た気がした。


「さらに戦術的な事を言えば、ここでこの状態の我々が二人もの賢者を相手に戦っても無傷で居られるとは思えません。ですから、ここは一つ」

「わかったよ」

 もちろんわかっていた。でも、わかってなどいなかった。

 だがこの場で暴れても仕方のないことだけはエイルとしてもどうしても認めざるを得ない事実だったのだ。

「つきましては、はじめに一つだけ教えて欲しい事があります」

 話の区切りがついたと判断したのだろう。今までエイルとアプリリアージェの会話をじっと聞いていただけのラウが、エイルに声をかけた。

「何をだ?」

 エイルはぶっきらぼうに答えた。そのエイルの肩に手を置くと、アプリリアージェがラウに声をかけた。

 少し話をさせろと言うことだろう。

 エイルの反応を待たずにアプリリアージェはラウに向かって声をかけた。

「すみません。重要なお話の途中だとは承知していますが、少し割り込ませて下さい。私達にとっては最優先事項なのです」

 アプリリアージェの態度で、エイルもハッとした。

 そうだ、分断されて一匹のスカルモールドと戦っていたはずの残りの四人はどうなっているのだろう? 

 アプリリアージェの窮地とラウの出現で頭に血が上って何も考えられていなかったことを、エイルは密かに恥じた。


「我々の連れが別に四人ほど居るのですが」

「ああ、なるほど」

 ラウは鷹揚に答えると部下に声をかけた。

「《群青の矛》」

「はい」

 ラウに呼びかけられたファーンは、即座に返事をした。

「スカルモールドは全て倒したのだったな?」

「はい。ですがここで倒した二体以外はすでに戦闘不能な状態でしたので、倒したというよりは、私が止めをさしたというのが正確な表現です」

 さっきの会話からも垣間見えてはいたが、エイルはファーンがかなり几帳面な性格であることをその答えで確信した。

「その場にいた四人はどうした?」

「いえ、その場にいた人間は一人だけです」

「一人だって?」

 エイルはファーンに向かって叫んだ。

「四人いるんだ」

「いえ、その場にいたのは子供とおぼしきダーク・アルヴが一人でした。私を見るなり何らかの呪法を使おうとしたので、とりあえず機能を停止させました」

「ダーク・アルヴですか?」

 アプリリアージェは険しい表情になった。

 エイルはそっちよりもファーンの言う「機能停止」という言葉が気になったが、口を挟むのは止めてこの場はアプリリアージェに譲る事にした。また感情が高ぶりかねないと思ったからだ。言い換えるとそう考えられるほどには冷静になってきていたという事でもあった。

 それにしてもエイルの一行にダーク・アルヴはアプリリアージェ一人しかいない。とすればファーンが言う『子供のダーク・アルヴ』とは、エイル達には関係のない人間だった。

「ジャミールの人間か?」

 ラウの問いに、ファーンは首を横に振った。

「いえ、私にはそれは判断できません。なぜなら……」

「いや、もういい」

「はい。ご指示とあれば消去しますが?」

「いや、以前の失敗もある。つまらぬ争いの種を蒔くのは自重しよう」

「私も同じ意見です。《二藍の旋律》」

「その場で、そのほかに変わったことはなかったか?」

「死体もありませんでした。多少血の匂いが残っていましたが、かなり薄いものでした。さほどの時間が経過していないと考えると、出血による生命の危険についての懸念は無用でしょう」

「他に気付いた事は?」

「あの場には複数の人間の匂いが残っていましたが、機能停止させたダーク・アルヴと同じような匂いを纏う者がもう一人居たようです」

 ファーンの言葉に、エイルとアプリリアージェは顔を見合わせた。

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