第五十話 エア 4/5
「賢者?」
エイルの疑問形の問いかけに、しかし少女は何も答えない。ただエイルを一瞥すると軽やかな身のこなしでスカルモールドであった土塊からひらりと飛び降りると、視線を自分の足下に向けた。そしてそこに横たわっているダーク・アルヴ、すなわちアプリリアージェ・ユグセルの背中に精杖の頭を当てて、何かを呟き始めた。
賢者が精杖を手に詠唱するもの。すなわちルーンである。
「やめろっ、リリアさんに何をするつもりだ?」
エイルはそう怒鳴ると慌ててその賢者に駆け寄ろうとしたが、背後からの声がそれを制した。
「《群青の矛》はハイレーンです。任せておけば大丈夫です」
その声は聞き覚えのある女の声だった。
エイルは立ち止まり、ゆっくりと声のする方を振り返った。
そこには黒い装束に身を纏った女アルヴがじっとエイルを睨むようにして立っていた。その女アルヴ越しに、地面に座り込んだアトラックと、仮面をつけ、珍しく肩で息をする銀髪のアルヴィンの少年が見えた。テンリーゼンだった。
二人の側にも別の崩れかけた土の塊があった。エイルには何が起きたのかよくはわからないものの、土塊がスカルモールドのなれの果てであることは理解できた。
アトラックの足の傷はともかくテンリーゼンはどうやら無傷なようで、エイルはひとまず安堵した。
だがそれと入れ替わるように心の底に沈ませていたはずの怒りとも憎しみともわからない感情が込み上げてくるのは抑えきれなかった。
「ラウ・ラ=レイっ!」
のどの奥から血の塊を引きずり出すかのような声でエイルはその女アルヴの現名を呼んだ。
「『エア』か。まったくやっかいなものだな」
エイルの呼びかけには取り合わず、つい今し方までスカルモールドであったはずの土塊を見下ろしながら、アルヴの女賢者は独り言のようにそう呟いた。
「これは何の真似だ?」
エイルはこみ上げる怒りを理性でかろうじて抑えながら、改めて《二藍の旋律》ことラウ・ラ=レイに声をかけた。
そしてその視線を再びアプリリアージェと《群青の矛》ファーン・カンフリーエに戻す。
ファーンの青い杖全体からぼんやりとした白い光が放たれて、アプリリアージェの全身を覆っているのが見えた。
「そう身構えないでもいいでしょう。今日は話をしに来ただけです」
「お前に話す事なんかない!」
ラウの口調には以前と全く違う雰囲気を感じて妙な違和感に捕らわれたが、エイルは大きな声でそう叫ばずにはいられなかった。
ラウはそれを受けて小さく溜め息をついた。
「言い方を変えます。こちらにはあなた方と争うつもりは毛頭ありません」
ラウはそれだけ言うと、驚いたことになんとその場に片膝をついてエイルに頭を下げた。
エイルは混乱した。
(何がどうなっているんだ?)
スカルモールドが消え……いやおそらくはあの《群青の矛》と呼ばれるアルヴの少女が倒したのだろうが……今度はラウ・ラ=レイが現れ、一難去ってまた一難と身構えたところが、相手は争うつもりはないと言う。
口だけではなく、膝を突いて。
それはまるで……
(まるで主人に対する従者のような態度じゃはないか)
おかしいのはそれだけではない。「エア」の内部にいるにも関わらず《群青の矛》と呼ばれた賢者は治癒のルーンを今まさに使っている。
やはりここはフェアリーの力だけを吸い取る特殊な「エア」で、ルーンは問題なく使えるのだろうか?
いや、それよりもなによりもエイルは二藍、いやラウの態度が腑に落ちなかった。
もしや?
(そうか)
エイルは一つの事に思い当たった。
(こいつが「エア」を作ったのか? スカルモールドもこいつのせいなのか?)
そうだとすれば辻褄が合うような気がした。
「どういう風の吹き回しだ?」
ゴクンとつばを飲み込み『冷静になれ』と二度自分に言い聞かせた後で、エイルはゆっくりとラウにそう声をかけた。
わからないことだらけのこの状態では、まずは現状を理解するしかなかった。今ここにいるのは自分だけだ。アプリリアージェはいまだにぐったりしたままで意識がない。アトラックも脚の傷で動けない様子で、テンリーゼンは……。
(リーゼは多分問題外だな)
エイルの呼びかけに、ラウは頭を下げたままで答えた。
「あなたが間違いなく本物の賢者であることは、我が
(おいおい、「あなた」だって?)
エイルは心の中で一人でそう突っ込んでみた。いつもならエルデと会話ができるはずだったのだが、今はそれは望めない。だが、そう言わずには居られなかった。もちろん声には出さずに。
だが、そう言った直後にエイルは思わず苦笑しそうになって慌てて唇を噛んだ。
いつの間にかエルデと意識の中で会話をする事が日常になっていて、それが出来ない事を寂しいと思っている自分に気付いたのだ。
エイルは首を振ってつまらない考えを振り払うようにすると、ラウとの会話に集中する事にした。
「今更何を言ってるんだ?」
ラウの言葉に鼻白んだのは間違いない。だからエイルは、吐き出すようにそう言った。掌を返したようなラウの態度に面食らいはしたものの、それがかえってラウに対する敵愾心を刺激されるようで、精杖ノルンを握る力を緩めるのに苦労さえしていた。
だがラウはエイルのそんな心情など知らぬ顔で、無表情のままで続けた。
「そしてあなたが私より上席にある賢者だと言うことも聞いています。勘違いとは言え先走った我が行為を今は恥じております。遅くなりましたが、先だっての無礼に対し謝罪いたします。この通りです」
ラウは再度頭を、より深く下げた。
その態度を見て、エイルはこみ上げる怒りに対しての歯止めがとうとうきかなくなった。思ったことがそのまま口から出る。
「今更謝ってすむものか! オレじゃなくてカレンに謝れっ!」
「カレン?」
ラウは顔を上げると不思議そうにエイルを見た。その態度と自分を見つめる濁りのない緑色の瞳を見て、エイルはようやく理解した。ラウが謝罪したのはエイルに対する攻撃についてであり、はなからカレナドリィの存在などこの賢者の眼中には無いのだと言うことを。
目的の為に迷い無く行使される強大で圧倒的な暴力。そこには人間の生に対する敬念や死に対する畏怖と言ったあらゆる感情は存在していなかった。右足の次には左足を前に出して歩くような、そんな当たり前の行為の単なる結果に人が勝手に殺戮という言葉を後付けしたかのような錯覚にすら囚われるほど淡々とした行為。
エイルはそれを知っていた。嫌という程。
ファランドールにやってきてしばらくの間、目の前、いや自分自身が繰り広げていた行為そのものであったからだ。エルデの唱えるルーンがもたらす結果の前に、エイルは何度も吐き気を催したものだった。
そして、ラウの表情を見て、その時初めてエルデがやってきたこととラウがカレナドリィに対して行った事が同義なのだと言うことに気付いたのだ。
要するに賢者とは、そう言うものなのだ。
エイルは忘れていた感覚を思い出し、鳩尾の下から急激な吐き気が頭をもたげるのを何とか堪えると、ラウから目をそらした。
「ああ、あの宿屋の娘ですか」
ラウはようやく思い至ったと言う風にそう言った。
「『ああ』じゃねえよ! なんだよ、お前は? カレンにあんなことをして今思い出したようなその態度は」
「はい。おっしゃる通り今思い出しました。結果として確かにあれもまた私の失策でした」
ラウの言葉に対し、エイルはこみ上げる怒りにまかせて手にした精杖で地面を思いっきりドンっと突いた。
「返せよ」
「え?」
「カレンを返せ」
「それはムリです。すでにご存じでしょうが、あの呪法は本人の魂を発動現力として消費させ成立させる呪法です。呪法が発動したからには……」
「そんなことはわかってる!」
「ムリだと理解されているのに返せとおっしゃるのですか?」
「何を言ってるんだ?」
エイルはそう言うと、今度こそ感情を抑える事に失敗し、精杖ノルンを大上段からラウの頭に向けて打ち下ろそうとした。
だが、エイルとラウの間に、先ほどのアルヴの少女が割って入った。
「なりません」
「どけっ」
精杖を振り上げたまま、エイルは少女をにらみ付けると怒鳴った。
「引けません」
「お前には関係ない」
「いえ、関係は大いにあります。主(あるじ)を守るのが私の務め」
「主だって?」
「はい。ラウっちは私の主です」
「ラウっち?」
「はい。大事な大事な私の主、ラウっちです」
ファーン・カンフリーエの言葉に、エイルは何となくばかばかしい気分になってきていた。目の前に立ちふさがる長い髪の少女には表情がない。《蒼穹の台》にもほとんど表情らしいものはなかったし、さらに言えばラウの顔からも何の表情も読み取れなかった。
エルデの本当の体をエイルは知らなかったが、その顔は同じように何の表情もないのだろうか?
また、思いはエルデの事に飛んだ。
(賢者とはそう言うものなのか?)
だが、少なくとも今のエルデはもう最初に出会った頃の誰もいない冷え切った冬の部屋のような雰囲気はなかった。
だから、本当の体を取り戻しても、目の前の二人のように無表情ではないと思いたかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます