第四十九話 ルルデの故郷 4/5

『くそっ。オレは何で』

【エイル】

『すまん、エルデ』

【その言葉はネスティに掛けたり】


 エイルは自分の存在を唯一証明するマーヤの記憶をたぐり寄せる事でようやく落ち着く事ができた。溢れてきた気持ちを抑えきれなかった自分を悔いたが、それはもう後の祭りだった。

 シェリルがいなくなって、ずっと押さえていたものがなぜか今、逆流して溢れてきたのだ。それは飲み込んだつもりで、その実、魚の骨のように嫌な感じで喉に引っかかっていただけだったのだ。そしてそれはまるでエルネスティーネの言葉を待っていたかのように、小さな刺激で簡単に口から吐き出されてしまった。

 エイルは自分の矮小さを呪った。


『よりによってオレは、いつも自分に微笑んでくれるこの優しい女の子に向かって……』

【もうええ。自分を責めるよりやるべき事があるやろ?】

『ああ。自分の愚かさに泣けてくる』


 エイルはエルネスティーネをまともに見る事が出来ず、うつむいたまま小さい声で呟いた。

「ごめん。言い過ぎた」

 それだけ言うと踵を返した。だがその袖口をエルネスティーネが捕まえた。

「エイルは、私達に、たった一つの、ウソも、言っていませんか?」

 少し涙声になってはいたが、その声は落ち着いていた。相変わらず息はあがっていたものの、激高していたエイルとは違い、静かな口調だった。

「いえ、私が聞きたいのは、そんな事では、ありません。質問を、変えます。エイルには、信じられる人は、いるのですか?」

 エイルが何か言おうとするのを遮るように、エルネスティーネはそう続けて質問を翻した。

「このファランドールで、エイルが信じられる、信頼できる人は、一人もいませんか?」

 純血のアルヴ族の証明であるエルネスティーネの緑色の目は、まっすぐにエイルの瞳を見つめていた。

 いつかエルネスティーネはエイルの黒い瞳を神秘的だと言ったが、エイルにしてみれば、エルネスティーネの明るい緑色の瞳の方が百倍も千倍も神秘的だと思っていた。

 その緑色の瞳にまっすぐに見据えられたエイルは、激して乱れた心が、少しだけ軽くなった気がした。

「ああ、いる。たった一人だけ」

 少し間を置いた後でエイルはエルネスティーネの問いに素直に答えた。

「――良かった」

 エイルの答えを聞いて、エルネスティーネは手を胸に当てて少し目を伏せた。

「良かった?」

 エルネスティーネはうなずいた。

「ええ。私は、思うのです。この世に、信頼できる人が、一人もいない事ほど、悲しくて、不幸な事は、ないと」

「――」

「怒らずに、聞いて下さい。たぶん、シェリルには、そんな人が、ルルデ以外に、いなかったのでは、ないでしょうか。そして、リリアさんには、きっとたくさん、いるのだと思います。だから、安心して、シェリルと笑って話が、できたんですよ」

「ネスティ」

「もしよろしければ、エイルが信頼するというその方がどんな方なのか教えて貰えませんか?」

「聞いて、どうするんだ?」

「もしその方に会えたら、考えてみたいんです」

「考えてみる?」

 エルネスティーネは涙目でにっこりと笑って見せた。

「エイルが、信頼する、この世でたった一人の、人です。きっと世間知らずな私には、見習うことが、多いに、違いありません。そして、エイルが、なぜその人のことを、信頼、できるのか、わかればいいな、と思います。そしてそして、どうすれば、そういう、人になれるのかを、考えて、みたいんです」

「――」

「だから、迷惑でなければ、教えて、ください。いえ、待って、下さい。名前は、言わないで、下さい。誰であれ、今の私だと、きっとその人を、たぶん、嫉妬して、しまいそうですから」

「嫉妬って」

「だから、名前ではなくて、エイルにとって、その人が、どういう人なのか、それだけ、教えて、下さいな」

 そう言われてエイルは目を閉じた。そして少しして目を開けると、エルネスティーネの目をまっすぐに見て答えた。

「その人は、そうだな。いま、混乱して取り乱したオレをいさめて我に返らせてくれた人だよ」

「今?」

「うん」

「そう、ですか」

「うん」

 

【エイル】

『う、うるさいな』

【えっと……マジで?】

『し、信頼してなきゃ大事な自分の体を任せたり出来ないだろうが?』

【あ、ははは。そ、それもそうやな。変な事するかもしれへんし、そら、信頼でけへんかったら、体全部預けるっちゅうのはちょっと無理やわな】

『ヘンな事って、おい』

【せやからそう言うことは何にもしてへんって言うてるやろ】

『ふん。どうだか』

【何やねん、その態度。言うた唇が乾かんウチにもう疑惑の目かいな?それから念のために言うとくけど】

『はいはい』

【エイル?】

『わかってるさ』

【何を?】

『何をって、オレはお前にだな』

【そやのうて、さっきのセリフ、たぶんネスティは思い切り誤解してるで】

『ええ?』


「あ、あの、私、なんと言っていいか……。嫌だわ。気持ちの準備が……。ああ、胸がすごくドキドキしてきました」

 

【ほら】

『うわ』

【オレは知らんで】


「あ、あのさ。この話はここまでにしよう。さっきは本当に悪かった。ちょっと興奮して言い過ぎた。ああ言ったけど、オレはみんなを信用していない訳じゃないんだ。それは信じて欲しい」

 エルネスティーネは少し溢れていた涙を拭うと微笑んで見せた。

 そして、左手を胸に当てて目を伏せた。

「私も、エイルの事を、信じています。あなたの今の言葉は、私の胸に、永遠に刻まれ、この先、どんな困難に、直面しても、私を、勇気づけて、くれることでしょう」

「えっと」

「こんな気分になったのは生まれて初めてです。私ったら、どうしましょう」

「あ、いや」

 苦しい息の中でそう言ってにっこりと笑う金髪の少女は、乾きかけていた目尻に溢れた最後の涙をもう一度拭うと、精一杯明るい声で続けた。

「近くに、温泉が、あるかもしれない、そうですよ。仲直りの、しるしに、もし見つけたら、一緒に、入りましょうね?」

「ええ?」

「えへへ。冗談、ですよ」

 

『じ、冗談にも程がある』

【いや。やっぱりええお嬢さんやな。よし、ちょっとだけ代わって】


 エルデはエイルから体を借りると、エルネスティーネの無邪気な挑発を完全に無視して、なじるような口ぶりで返事をした。

 ただし、古語ではなく南部語で。もちろん、エルデであることを隠す為の工作だった。

「そんなことより山道に慣れず、青息吐息ですっかりお荷物状態のお姫様は、いい加減意地を張るのを止めて、ファルに泣きついて肩に乗せてもらった方がいいんじゃないのか?」

 そのエルデ一流の悪口は、あっという間にエルネスティーネの笑顔を奪い、その顔を曇らせることに成功した。誇りを傷つけられること、それはアルヴ族の一番嫌うことだからだ。エルデはそこを狙って敢えて言ってみたのだが、エルデの言葉は予想以上の効果をもたらしてしまった。


「――意地悪な、ことを、いうのですね」

 そうつぶやいたエルネスティーネはまた目頭が熱くなってくるのを感じた。

 エルネスティーネはエイルと仲直りができたと思っていた。だがそれは勝手な思い込みのようで、また相手の気持ちがわからない状態に逆戻りしてしまった事がせつなかった。

 いや、逆戻りではなく、前より離れてしまったような気がして、今まで感じたことのない不安におそわれたのだ。手を伸ばしたら相手の体温が肌で感じられるほど近くなったと思った次の瞬間に足場が崩れ、気付けば真冬の海に投げ出されていたような気分だった。

 だがそれはエイルに対する失望などではなかった。たった一言、意地の悪い言葉を投げかけられただけで、そんな後ろ向きな気持ちになっていく自分のあやふやな心がどうにもみっともなく思えて悲しくなったのだ。

 しかしお姫様の心は、この日はまだまだ元気が残っていた。後ろ向きな思いを押さえ込み、自分を奮い立たせるだけの気力を引き出す事ができたのだ。

(ここでうつむいてはいけない)

 エルネスティーネはそう自分に言い聞かせると、強く唇を噛んで小さな拳を握りしめ、こみ上げてくる孤独感を封じ込めた。

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