第四十六話 鳶色の瞳のシェリル 8/8
「気分はどうだ?」
手をつないで横を歩くシェリルに、ベックはそう声をかけた。
「別に普通よ。さっきから何回も同じ事を聞くのね」
「いや、まあ今日も山歩きだし、ムリはしない方がいいからな」
「ベックったら、変なの」
そういうシェリルはつないだベックの手を少し強く握った。
「いいお天気ね。今日はしっかり距離を稼がないといけないわね」
「そうだな」
「そうそう、ベック。私、素敵な事を思いついたわ」
明るい声でそういうシェリルを、ベックは複雑な気持ちで見つめた。
「さっきうとうとしている時に、とても素敵な名前を思いついたのよ」
そう言ったシェリルの白い頬に急に朱がさすのを、ベックは見逃さなかった。
「素敵な……名前?」
ベックの動悸が速くなった。そして同時に汗が全身から噴き出してきた。
「ええ。とても素敵な名前だから、もし私に将来子供が出来たらその名前を付けたいなって思ったわ」
「そうか」
ベックはエルデのルーンが失敗ではないのかと懸念した。
立ち止まり、思わず後ろを振り返ったが、もう一行の姿は全く見えなかった。
「聞いてくれる?」
「ああ。なんて言う名前だ」
「リリエデール」
「え?」
「リリエデールよ。いい名前でしょう? なんだか夢の中で突然思いついたの」
「そうか」
「ベックはどう思う?」
「どうって……いい名前だとオレも思うよ」
「ふーん」
自分を見上げるシェリルの顔はいっそう赤くなっていた。だが、ベックはもうそれがエルデのルーンの失敗ではないことを理解していた。
シェリルはそんなベックの目をじっと見つめながら続けた。
「それって、自分の子供に付けてもいいって思うくらい?」
「そうだな……」
ベックはほっと胸をなで下ろすと、シェリルの手を握りしめた。
「俺も、できたら自分の子供にその名前を付けたいな」
ベックの答えにシェリルの鳶色の瞳が輝いた。
「ねえ、ベック。それって……」
「ちょ、ちょっと急ごうぜ。俺達、ハロウィン先生達からずいぶん遅れちまってる」
ベックはそういうとシェリルの手をひいて、少し早足に歩き出した。シェリルは何も言わずベックの手を強く握り返すと、再び並んで歩き出した。
個人毎の記憶を都合良く消せるルーンなどはない。
最初にエイルからシェリルの記憶を消すルーンがあるかと尋ねられた時、エルデはそう答えた。
人間が形成する断片的な記憶と、記憶が複雑に関わりあって大まかな時間的、空間的なつながりが構築される事によって人の頭の中ではじめて「過去」が構築される。そしてそれは事実とは限らない。だが、人はそれぞれ自分の記憶が真実だと思い込む。
そこでエルデはシェリルの記憶の配列をいくつかに区切り、その区切りごとにルーンをかけ、該当する人物に関する反応が多い部分を他から隔離した上でそこに「無」の情報を流し込んだ。
存在する記憶を何もない状態で上書きしたようなものだった。そしてそこに他の区切りにある情報を複合させて流し込み、本人としてのつじつまを合わせる手法をとった。そして念のために一番古い記憶から順番に「無」と混濁させて曖昧な物にしておいた。
エルデが理解していて、かつ実行可能な精神操作系のルーンの概念と実行手順のようなものをエイルが聞き、何をどう組み合わせれば効果的なのかを考えて提案したものだった。エルデは最初は猛反対したが、食い下がるエイルと長い話し合いをする中で、既存のルーンに大幅な修正を加えることでエイルの提案がほぼ実現可能な手順を作り上げることに成功したのだ。そしてエルデが長い沈黙の果てに再構築した壮大な複合ルーンが、シェリルにかけられた一連のルーンの正体だった。
「普通のルーナーが唱えたら一ヶ月以上喋り続けなアカンやろな」
皮肉とも自慢とも取れる言葉をエイルにつぶやくと、エルデはルーンの完成を告げたのだ。
だが、実行するかどうかについては二人とも揺れていた。もちろん、それはもはや禁忌同然の行為なのだと言うことを理解していたからだった。
とはいえ、シェリルの精神状態が混乱しているのは明らかだった事もわかっていた。
それを二人が確信したのは最後の術を掛ける直前だった。
シェリルは、ファランドールでは通常『八重山百合』と呼ばれる花のことを「リリエデール」だと言ったのだ。それは彼女がエイルに出会うまでは知らない言葉のはずであった。
なぜならシェリルが見た夢は、エルデがルーンで見せたものだった。もちろん話の筋を事細かく指定したわけではない。過去にもっとも強い印象がある場所に退行させるようなルーンである。八重山百合が咲き誇る丘はシェリルが無意識に選んだ物なのだ。
それがルルデとシェリルの婚約の場であった事は、その時はじめて知ったことだった。
だがシェリルはその時「八重山百合」とは言わず、エイルと出会った時にはじめて知らされたディーネ語の名前「リリエデール」と言ったのだ。
シェリルの中では、様々な事象が混濁し時系列を無視した融合が始まろうとしていたのである。
エイルとエルデはその時にようやく全ての迷いを振り払うことに成功したのだとも言えた。
一人の人格を完全に消してしまうのはむしろ簡単だが、部分的な書き換えルーンなどはなかった。ランダールの蒸気亭で使った「忘却の暗珠」は直近の出来事に関する記憶を消す呪法で、記憶の表層にあるものを光でさっと覆うようなものだから、これも全く違うものだった。
さすがに一つのルーンで事を済ますわけにはいかず、数回に分けてルーンをかける必要があった。
エルデは夜の間に記憶の層を不安定にするルーンやその記憶層を区切る壁のようなルーンなどをかけておき、さらに上書き消去する部分を探る為の反応ルーンも仕掛けた。
その状態でしばらく時間を空け、仕上げに特定された場所を上書き消去する実行ルーンを唱えたのだ。
だが、そのルーンにはある条件が必要だった。術者と被術者の共鳴のようなものなのだが、この場合はその条件はほぼ満たされていると言ってよかった。被術者を何のためらいもない状態に置き、術者に全てを委ねた上で同じ認証文を唱える事で、効果を増幅させる事が可能になったのだ。結果として確実な履行が行われた。
それがエルデとシェリルが交互に唱えたあの平文による認証文であった。
本来ならば契約文ならいざしらず、認証文を平文で詠唱する事はありえない。だが内容をシェリルが理解した上で唱えなければならなかった為に、敢えて平文にして作り上げた認証文であった。
もちろん、術者のエルデを触媒に、その平文はエーテルに呼応できる信号に変化するのだとエルデはエイルに説明した。こう書くとルーンを作り出すのは簡単に聞こえるかもしれないが、それはエルデだから出来たことだと考えるべきである。
星暦が始まって長い年月が過ぎたが、その間にまったく新しいルーンが生まれたという記述はない。
いくつかあるルーンを組み合わせたものとは言え、それまで存在しなかったものを作り上げることに成功したエルデの能力が普通ではないと言う事の証左である。
記憶が虫食い状態のままでその空白部文を曖昧に補完する形で再構築された記憶の集合体であるシェリルという人格は、外界から大きな影響を受けない限り、やがてそれらの記憶を元に補完された部分を強固に安定させた人格になるはずであった。
だが、それは本当にサラマンダのメビウス・ダゲットの妹、昨日までのシェリル・ダゲットという人間と同じ人間なのかどうかは、もう誰にもわからない。
確かなのは、目を覚ました時に、最初に目に映ったベックという青年をシェリルは好きになるという事だけだった。最後の最後にシェリルに対してエルデがそっと唱えたルーンは、実はそういうルーンだったのだ。
『冷める事のないほれ薬、か。あれだけは、口が裂けても誰にも言えないな。特にベックには』
【そもそもアレは禁忌やしな。ダーヴァのグラムコールはヤバいルーンが多いんや】
『犯罪者め』
【言うとくけど、共犯やからな】
『もうこうなったらヤケだ。お前となら、共犯でもなんでもつきあってやるさ』
エイルはそういうと握りしめていた拳を開いた。
そこには、リリエデールが精緻に浮き彫りにされた、薄茶色の髪飾りがあった。
公式な記録にシェリル・ダゲットという名前はみつからない。
膨大なミリア・ペトルウシュカの創作の中にも現在のところシェリルをモデルにしたと思しき絵は見つかっていない。もっともミリアがシェリルと出会っていたとは考えにくいのでそれは問題ではないだろう。
しかし、多くの吟遊詩人が行方不明の婚約者を追って異世界フォウへ旅立って行ったシェリルという名の伝説の娘の歌を今でも歌う。
そして多くの器楽演奏者が今でも好んで奏でる、暖かく心に染み渡る美しい旋律を持つ曲がある。
曲の名はご存じ、「鳶色の瞳のシェリル」
「エレルアリーナの主題による変奏曲」と呼ばれる事もあるが、「鳶色の瞳のシェリル」という曲名の方が通りがいいだろう。
サラマンダだけでなく、ファランドールの各地で今でもこの曲を相手に捧げる事が、求婚の意味を持つとされているのは周知の通りである。
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