第四十五話 エレルアリーナ 3/6
「お願い。じっとしてて」
耳元でまたシェリルがささやいてきた。
いつもの落ち着いた優しいシェリルの声だった。声と一緒に柔らかいシェリルの髪が頬にかかる。
右側は耳の上の髪留めで留められているはずだから、今頬にかかった髪は左側の髪だろうか、とエイルは推測した。シェリルの口元との距離もわかる。少し顔を動かせば目の前にシェリルの顔があるに違いないと思うと、エイルの緊張はさらに高まった。
「シ、シェリル」
エイルは小さく声をかけた。
「こ、こんばんは?」
【うわっ。この状況下でまずは挨拶かいっ】
『じゃあどう言えばいいんだよ。文句を言うならお前が代わってくれよ』
【いや、悪いけどこれはお前の問題やろ】
『くそ。お前がこういうヤツだってわかってるのに頼るしかない自分が情けない』
【なんやて?】
「ねえ、ルル……」
当然ながらエイルとエルデのやりとりなど聞こえないシェリルは、エイルの焦りなど我関せずだった。騒がずじっとしているエイルに安心したのだろうが、もともとその声には焦りや羞恥などは感じられず、静かなものだった。
「ルルデよね? 肩の傷なんてルーンがあればいくらでも消せるもの。あの恐ろしい痣だって、あの後につけられちゃったのよね?」
「いや、シェリル」
「ずっと考えてた。あなたはルルに違いないのに、なぜエイルなんて名乗ってるんだろうって」
シェリルはそういうとエイルの背中に抱きつくような格好で重なっていた。嗅覚のないエイルには頬にかかるシェリルの髪の匂いはわからなかったが、シェリルの体温は確実に伝わっていた。
「シェリル。オレの話を聞いてくれ」
「私の話を先に聞いて」
エイルは上体を起こそうとしたが、シェリルに鋭くそう言われると力を抜いた。
「あなたはきっと誰かに記憶を消されたのよ。そして、嘘の記憶を植え付けられたの」
『そうなのか?』
【おいおいおい】
『お前ならやりかねん』
【えらい言われようやな】
「だから、お願い。思い出して。私よ。あなたのシェリーなのよ」
シェリルの声が鼻声に変わった。
それを受けてエイルが思わず声をかけようとした時、頬に熱いものが落ちてきた。
「ねえ。こっちを向いて、ルル」
シェリルはそういうと、両手と両脚をエイルの体の上からずらして体を浮かせ、エイルが動きやすいようにした。
エイルは意を決して仰向けの体勢になった。当然の結果として、すぐ目の前にシェリルの白い顔があった。そしてセレナタイトのぼんやりした明かりに照らされてシェリルの姿が暗い部屋に浮かび上がって見えた。
もしかしたら、とエイルもその状況を想定していた。
だが、その予想が当たった事を知った瞬間、エイルは思わず目を閉じた。予想はしていたが、対処方法は考えていなかった。ただ、それ以外に選択肢が無かっただけだった。
アルヴスパイアのマントを羽織ったシェリルは、それ以外何も体に纏ってはいなかったのだ。見てはいけない、と思って目を閉じたエイルだが、それが失敗だったことを次の瞬間には知る事になった。目を閉じたエイルに、すかさずシェリルが覆い被さると、柔らかいもので唇がふさがれたのだ。
『!』
【!!】
「ちょ、ちょっと!」
【このアホっ!何してんねんっ!!】
『オレは何もしてないだろ』
【どうしてくれんねん、ええ? どうしてくれんねん! 俺、こう見えても初めてなんやで!】
『と、とにかく落ち着け。オレも落ち着くから』
【これが落ち着いていられるか! よりによって……】
『よりによって?』
【いや、何でもない……。いやいや、何でもないことないわっ!】
『だから落ち着いてくれよ。お前に狼狽えられると、オレはどうしたらいいんだよ』
エイルはとにかく慌てて目を開けると、シェリルを引き離した。引き離したはいいのだが、そうすると今度はシェリルの何も付けていない白い胸が目に入った。もちろん、その下も……。さらに慌てたエイルは、今度は目を閉じずに顔を明後日の方向に向けることで刺激的な視界を封じることにした。
「大丈夫、恥ずかしがらないで。私達はこういう事をしてたんだから」
「いやいやいやいや」
【この女っ!】
『頼む、落ち着いてくれ。不本意ではあるが、オレはこの世界じゃお前だけが頼りなんだから。ついでに言うと、今日ほどお前にすがりたい気持ちになったのは初めてなんだ』
【黙れ黙れ黙れっ、このスキだらけ男! お前なんかサイッテーや。つーか、不本意って何やねん?】
『そこかよ』
シェリルはしかし、またしてもエイルの予想を超えた行為にでた。目を逸らしたままのエイルの手をとると、それを自分の左胸にあてがった。エイルは掌に返ってくる感触で何が起こっているのかを悟ると思わず手を引っ込めた。
エイルのその反応を見たシェリルの顔が寂しそうに崩れたかと思うと、辺りの静寂が破られることになった。
「うあああああっ」
両手で顔を覆ったシェリルは、今度は声を殺さず、声を上げて泣き始めたのだ。
「なぜ?」
勿論、そんな問いかけにシェリルは答えなかった。
「シ、シェリル、頼むから落ち着いて話を聞いてくれ」
「ルルのばか!」
「いや、ルルじゃないんだって……」
「いったいどうしたんだ?」
狼狽えたエイルが、なだめようとシェリルの肩に手をやった時、不意にティアナが現れた。
ティアナはセレナタイトの灯りにボンヤリと浮かび上がるエイルとシェリルの状況を見て数秒間固まったかと思うと、慌てて回れ右をした。
「す、済まない」
「ティアナ、あのさ……」
「み、見張りの交代を告げに来たんだが、急に泣き声が聞こえたもので、その、覗くつもりはなかった。これは本当だ。我が矜持に誓おう。だから許して欲しい」
「誤解だ、ティアナ」
ティアナにエイルがそう声をかけると、シェリルの泣き声が大きくなった。
「いやだから、これはその……そういうんじゃなくてさ。だから、違うんだ」
「いや、成人した男と女の事に私はとやかく口を出すつもりはない。安心しろ」
「だから違うんだって。オレ達は話し合ってただけで……」
「いや、さすがにその格好で見え透いた言い訳をするのはよくない。男のくせにみっともないぞ」
「ええ?」
エイルは改めてシェリルと、そして自分の格好を見た。
「うわっ」
上半身は肌着を着ていたが、下履きが膝のあたりまで脱がされて、シェリル同様あられもない姿になっていた。ぼんやりとしたセレナタイトの光に映し出される自分の情けない姿を見て、エイルはがっくりと肩を落とした。
『なあ、思いっきり声を出して泣いていいか?』
【何考えてんねん、このアホんだら! スカポンタン!】
『そうだな。アホンダラだ。スカでポンでタンだよ。もう幾らでも罵ってくれ』
【死んでまえっ】
『うん。いっそ殺してくれ』
【で、これ、どうすんねん?】
『どうしようもないだろ。オレはもう終わりだ』
【逃避したらあかん。しっかりせえ】
『どっちだよっ』
「いや、マジでこれにはいろいろ深い事情があるんだ。絶対ティアナが考えているような事じゃないから。まずはオレの話を聞いてくれ」
「どうでもいいが、時間は時間だ。お楽しみの所申し訳ないが、さっさと服を着て下りてこい」
「あ、ああ。すぐにいく。って、お楽しみじゃあないって!」
「それから、何を言っていじめたのか知らんが、ちゃんとなだめてやれ。それにシェリルにも早く服を着せてやらないと。結構冷えてきたから、あれでは風邪をひくぞ」
「あ、ああ」
ティアナはエイルの言葉にはほとんど耳を貸さずにそれだけ言うと、あっと言う間に気配を消した。おそらく、もうたき火のそばに下りていったのだろう。
エイルは下履きをずり上げながら思案した。
シェリルは座り込んで泣いたままだった。
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