第四十四話 雷神 5/5
「まあ、司令……いやリリアお嬢様に関するそういう逸話はいくつかあってさ。たとえば酔っぱらってリリアお嬢様の尻を触った兵士の手が雷に打たれて腕としては使い物にならなくなったとか、あの大きな胸を思わず鷲づかみにした他部隊の兵士の鼻を笑顔のまま電光石火で削ぎ落としたとか、後ろから抱きついてきた上官の足の甲に短剣を深々突き刺して足先半分切り落としただとか、そんな話は両手で数え切れないくらいあるんだぜ」
「悲惨な話だな」
「だろ? 中でも一番可愛そうなのは」
「ああ、もうわかったから。それ以上はいいよ」
「なんだ、もっと恐ろしい話をしてやろうと思ったのに」
「リリア姉さんが好色漢に対して容赦無い、って言うのはわかったけど、でも真面目に好きだって言う人間を殺したりしないだろ? だったらファルケンハインやアトラックが姉さんとつきあうこと自体は問題ないんじゃないのかい?」
エイルの問いに、アトラックはやれやれという風に目を伏せて首を横に振って見せた。
「エイル」
「何だよ?」
「お前、やっぱり本質はガキだね」
「なんだと?」
「大人の男女のつきあいとか結婚とかってわかってないだろ?」
「そりゃ」
「だいたい、女と寝たことあるのかよ、賢者殿?」
「バカな事を聞くな。オレは聖職者だぞ?」
【は?】
『え?』
【聖職者と男女の関係がなんで一緒に出るんや?】
『いや、それはこっちのセリフなんだが?』
【ひょっとして】
『ひょっとすると、こっちの坊主ってのは子供作ってもいいのか?』
【子供作らな、後継者はどうなんねん? っつーか、フォウの聖職者ってのはそっちの方は禁じられてんのか?】
『禁じられているような、そうでないような』
【どっちやねん】
『宗教や宗派による、ような気がする』
【いや、もうええわ。お前と話してると頭痛がする】
『だから、俺が異世界の人間だって事を早く言えばいいだろ』
【はいはい】
「突っ込む所だよな、それ」
アトラックは不信感を隠そうともせずエイルの顔をのぞき込んだ。
「いや……出来たら流してくれ」
目を逸らすエイルを見て、アトラックは苦笑したが、それ以上は追求せずに話を続けた。
「いいか、例えばお前がネスティと結婚したとする」
「ええ?」
エイルは驚いて逸らしていた目を思わずアトラックへ向けた。アトラックはそんなエイルの頭をポンっと優しく叩いた。
「ばか、喜ぶな。たとえば、の話だ」
「ああ……うん」
「で、だ。お前はネスティを怒らせない自信があるか?」
「そりゃ、好きになって結婚したんだから」
「生涯ずっとか? 何十年も怒らせない? 全く? じゃあ、聞くがおまえさんとネスティが外を一緒に歩いてて、向かいからすこぶる付きの美人がやってきたとき、おまえさんその美人から目を背けられるか? 一回じゃないぞ。一生だ」
「いや……」
エイルはアトラックが説明した情景を不覚にも想像して、うつむいた。
「たぶん……ムリかも」
「ふん。それでお前がその美人に見とれたとかそういうんじゃなくて、本当に単純に視線を向けただけであったとしても、だ。鼻の下を伸ばしたとカミさんであるネスティに誤解された瞬間、文字通り容赦なく頭上に雷が落ちて来るって考えたらどう思う?」
「まさか、普通それくらいでここまでしないだろ」
「ふ。司令……いや、リリアお嬢様は」
「リリアさんは?」
「怒ると髪の毛が逆立って、周りにバチバチと雷が走り回るんだぜ?」
「それって?」
「近くにいたら感電さ」
「いやいやいや……」
「ウソじゃないさ。俺も副司令……じゃなくてレインさんも何度も巻き込まれかけてるんだ」
「き、切れやすいのか? リリア姉さん?」
「いや、普段はお前の認識通りさ。あんな風ににこやかで柔和そうに見える人なんだが、それは感情がないって事とは違う。さすがにシルフィードの公爵というか誇り高いダーク・アルヴと言うか、自らの矜持を傷つけられるような事に対しては間違いなく腹を立てる。中でも恐ろしいのは時々前触れも無く、いとも簡単に切れるって事なんだよな」
「歩いてて突然ドン、バリバリって?」
「まさか。そうじゃなくて俺達にはわからないような点でお怒り状態になる事が多々あって、それがまさに瞬間沸騰どころか瞬間蒸発って感じでな。何度か死ぬほど恐ろしい目にあってるんだよ。クラルヴァイン副司令……じゃなくてリーゼがその場にいなければ、俺なんてもう何回かは死んでるさ」
「ひえ」
「そんな人とおつきあいするだの、ましてや結婚なんて。そもそも俺なんて人並みに美人に弱いから、結婚式にたどり着くまでに命があるかどうか」
「歩く処刑台って訳か」
「ただ……」
「ただ?」
「直接手を出してきたヤツはともかくとして、司令ほどの人がなぜ感情を制御できないまま、持っている力を漏らしてしまうのかがどうにも不思議なんだ。それに」
アトラックはそこで言葉を切ると、前方を軽やかに歩くアプリリアージェの小さく揺れる黒髪を見つめてから、静かに呟いた。
「本来、司令は敵も味方も誰も傷つけたくないって思っているような人なんだけどな」
エイルはそれには答えず、アトラックと同じように、前を歩くアプリリアージェの小さく揺れる黒髪を眺めていた。
「じゃあ、リリア姉さんは今まで誰ともつきあわず、独り身を守っているって訳か」
「そうだな。でも、考えてもみろ。あの若さで中将だぞ。そんな浮いた事をやっている暇などなかったというのが本当のところじゃないかな。俺はリリアお嬢様が休暇を取った話すら聞いたことがない」
アトラックは同情とも尊敬ともとれるような口調でそう言ったが、すぐに言葉の調子を変えた。
「あ。そう言えば男とつきあったことはないが、意中の人はいるようだな」
「え、本当か?」
エイルは思わず尋ねた。
「誰なんだ、そいつ? よっぽどすごいヤツなのか?」
アトラックはエイルのその反応を見て満足そうな表情を浮かべた。
「知りたいか?」
「そりゃ、あのリリアさん程の人が好きになる男って言うのは知っときたいだろ?」
アトラックは大きくうなずいた。
「だよな。あの人の心を鷲掴みにする程の男とは一体どんなヤツなのか……そりゃ男としては興味あるよな」
「ああ」
「悪いが、俺も知らん」
「ちょっと待て」
エイルは眉をつり上げてアトラックを睨んだ。
「何だよ、それ」
「ははは。悪いな。なんでも数回会っただけの男に一目惚れして以来、ずっと心はその人のもの、と言う事らしい」
「誰に聞いたんだ、そんないい加減な話」
「残念ながら又聞きじゃなくて、これは俺が直接本人から聞いたんだから間違いない話さ」
「へえ」
「話によると、その男と会ったのは首都エッダの王立図書館らしい」
「図書館? と言うと軍人じゃなくて学者とか学生とかか? それとも内勤の後方支援の軍人?」
「いや、不明だ」
「不明って……おいおい、本人に聞いたんだろ?」
「リリアお嬢様もそのお相手の事は一体どこの誰だか、とんとわからないそうだ。少なくとも話を聞く限りでは、出会った当時は少なくとも軍人じゃないと思う」
「なぜそう思うんだ?」
「なぜって……そのお相手は当時十二歳だったリリアお嬢様よりもさらにお若かったらしいからな」
アトラックはそういうと、いたずらっぽく笑って目配せして見せた。
「アトル!」
「おっと。ま、そういうことだ。不思議な少年に出会ったリリアお嬢ちゃんは、その少年にもう一度会いたいんだとさ」
「やれやれ。何だよ、それ」
「何だよって言われても俺にもよくわからん。何せ酒癖のいいリリアお嬢様がワインの瓶を相当数空けた後に、いい気分になって必ずしゃべり出す昔話だからなあ。リリアお嬢様が酔っぱらう時分なんだから俺もレインさんもそん時ゃ相当『来てる』わけだし。まあ、そんなこんなであんまり詳しい事までは誰もわからないのさ。だいたい本人に相手がわかっているくらいなら、もう会っているだろうさ」
その時一行は森から少し開けたところにさしかかった。
風向きが変わり、エイルは後ろからそっと押されるような一陣の風を背中全体にふわりと受けた。
「おっと。風向きが変わったようだな。この話はここまでにしよう」
「了解」
エイルはその話の続きをもう少し聞きたいと思ったが、アトラックに同意して短く答えると、少し歩く速度を上げて前を行く一行との距離をつめにかかった。
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