第三十九話 神の空間 2/5
その仮説が間違いないと思えるのは、相手が誰なのかを知る前よりも相手が誰なのかを理解した後の方が、緊張の度合いが明らかに高いエイルの険しい表情を見たからである。
アプリリアージェはそのエルデの様子を見て、同じ賢者であったラウ・ラ=レイとの対決を思い出していた。
端からは絶体絶命に見えたあの時でさえ、相手が誰かがわかった後には終始余裕のある雰囲気と口調で対峙していたエイルだ。だが今はどうだ?
同じ人物とは思えないほど、今のエイルの表情には全く余裕が感じられない。
むしろその表情からは焦りと恐怖と絶望しか読み取れなかった。
そう感じた自分の直感を認めたくはなかったが……。
「まずは名前を教えておくれ、賢明なピクシィの少年よ」
少年の呼びかけに、エルデは少しの沈黙の後でゆっくりと自分の名を告げた。
「我が名はエイル。エイル・エイミイ」
青いローヴの少年は表情を全く変えずに首を横に振った。
「エイミイ、か。良い族名だね。でも」
それは独り言のように呟いただけだったが、静まりかえった空間ではその場の全員の耳に届いた。だがそんなことはお構いなしに少年はエイルに対して少し強い調子で詰問した。
「カビの生えたような現名などどうでもいいんだよ。賢者の名前をおしえてくれないか?」
「……」
ここまでくるとアトラックも今が異常事態、かつ第一級の緊急事態であることを確信していた。いつものエイルならば、こんな場合「人に名前を尋ねるなら、おまえが先に名乗れ!この無礼者め!」くらいの言葉が出て当然だった。だが見たところエイルの表情はこわばり、そんな軽口をたたく余裕さえ感じられないように見えた。
「やれやれ」
金髪のアルヴィンの少年は面倒くさそうにそう言うと、その後の口調がつまらなさそうなものに変わった。
「そう構えなくてもいいよ。僕はただ弟子から偽物の賢者がいるって聞いてそれを確認に来ただけなんだ。君を捕って食おうというわけじゃない」
「弟子?」
アトラックが思わず声を出した。
「あいつを弟子と呼ぶということは、お前はひょっとしてシグ・ザルカバードか?」
ファルケンハインが続いた。
そう。【二藍の旋律(ふたあいのせんりつ)】の師匠は【真赭の頤(まそほのおとがい)】だとエイルが言っていたではないか。
エイルのことを【二藍の旋律】から聞いてやってきたということならこの状況に陥った経緯はわかる。やはりこのアルヴィンの少年は賢者だということだ。
(いや、待て。シグ・ザルカバードは確か禿頭の初老のアルヴだということだったはず)
だがアルヴィンの少年はそんな二人の言葉にも全く反応しなかった。
ファルケンハインの質問に答えたのはエイル……いやエルデだった。
「全く違う。悪いけど、みんなはちょっと黙っといてくれ」
『おい、一体誰なんだよ?』
【こいつは……でもなんで? なんでこんな事の為にわざわざ出てきたんや? おまけにラウの師匠やて? ああ、もう、何がどうなってるんやろ?】
『おい、おまえが混乱するなよ』
【あのな……一言だけ言うとく】
『え?』
【俺の予想が当たってたら、冗談抜きで絶体絶命や】
『絶体絶命って』
【スマンな。妹のマーヤにはもう会われへんかもしらん。ウチも師匠にはもう会えへんかも……スマン。堪忍や】
『お、おい、らしくないぞ。何でお前がそんな弱気になるんだよ』
【こいつは……「三聖」の一人……】
最後の言葉は声に出した。
「そう。【蒼穹の台(そうきゅうのうてな)】!」
エルデが口にした言葉に対し、アルヴィンの少年の表情が「おや?」という興味深げなものに変わった
「なんだ、君。僕の事を知っているのか」
そう言うと腕を組んで記憶をたどる仕草をするが、すぐに首を横に振った。
「うーん、でもやっぱり僕の方では君のことは全く知らないんだけどねえ」
(【蒼穹の台】 ?)
アプリリアージェはエルデの言葉に我が耳を疑った。
知っている名前だった。
いや、知っているどころか、国際的な見地から極めて重要な人物の名前だと言った方がいいだろう。もっともごく一部の人間しか知り得ぬ名前でもあった。さらに言えば、実在する人物の名前とは認知されていないものなのだ。
その名前を持つ人物……すなわち本人とよもやこんなところで出会うなどとは夢にも思わなかった。
国の中枢に身を置く人間だけが知るマーリン正教会の賢者の名簿がある。名簿と言っても過去、何らかの経緯で名前のわかっている一部の賢者の名前が記されているだけのものだが、その最初の項目に今聞いたその名前がある。
それとは別に一般の人間が眼にする事が出来る文献の項目からもその名を知る事だけは可能だ。文献とはもちろん、いわゆる紳士録である。
両方に共通するそれは「三聖」と書かれている項目だ。
アプリリアージェにしてみればその名前を持つ人間に会うことがあるなどとは一瞬たりとも思ったことのないような、文字の中だけで存在するはずの人物の名前だった。
そう。
冗談ではなく一生出会うはずなどない人物の名前のはずであった。
「まさか……あなたは「三聖」の一人、あの【蒼穹の台】 ですか」
アプリリアージェは思わずアルヴィンの少年に呼びかけた。だが、例によって金髪の少年はアプリリアージェにはピクリとも反応しなかった。まるでその場にいるのは視線の先のエイル……いやエルデ・ヴァイスだけと言った風情で口を開いた。
「でも君が僕の事を知っているんなら話は早い。実は【二藍の旋律】がこっぴどくやられたっていうから、ただの偽賢者じゃないとは思っていたけど、僕の顔を見て名前がわかるんだから、そりゃもう絶対、間違いなく偽賢者なんかじゃないよね」
「私は、本物の賢者です」
【蒼穹の台】はエルデのその答えににっこりと微笑んで見せた。
「私たちをどうするおつもりでしょうか? 【蒼穹の台】」
アプリリアージェはエルデが敬語を使った事に反応して質問を続けた。つまりエルデと【蒼穹の台】の相対的な力の差の大きさをエルデ自身の口から聞かされたと判断したのである。だとしたらここは無視されても食い下がることが重要だと思ったのだ。理性は無駄だと告げていたが、彼女はそうせずにはいられなかった。
あの自信家で傲岸不遜なエルデの口調がこの相手に対しては敬語に一変したのだ。それは間違いなく、そこにいるのが本物の【蒼穹の台】であり、その地位と力は計り知れないものなのだと告げているということなのである。
「ああ。そこにいる連中を気にしているのかい? 僕に何かしてこようとしたら消すつもりだったけど、邪魔をしなければ心配することはないよ」
アプリリアージェ達の存在にそのとき初めて気づいたと言った風情でサラリとそう言ってのけた【蒼穹の台】の言葉に、アプリリアージェの背中に冷たいものが走った。
(おそらく、我々は危機一髪だったのだ)
アプリリアージェの想像は正しかった。
あの時エルデが叫んでいなければ、ル=キリアの誰かは何らかの攻撃をかけていたに違いない。そしてそうなれば彼らは間違いなくやられていただろう。
「やられる」という根拠はないが、それは間違いのない感覚だという奇妙な自信がアプリリアージェにはあった。変な言葉だが、そうとしか言えない。
(我々は戦う前に負けていたと確信できる)
そう思うほど底知れない恐ろしさをその少年は纏っていた。
(つまり私たちは、エイル君に命を助けられたということ?)
「でも、さっき言ったように僕は偽賢者を見に来ただけだよ。だから君の名を聞いた。もう一度尋ねるけど、君は誰なんだい?」
「今は訳あって名乗れません。しかし、証拠をお見せすることはできます。これを」
エルデは一礼すると精杖を掲げて見せた。
頭部にいくつかのスフィアがはめ込まれている。そのうちの一つが光り始めた。同時に何もなかった額に例の第三の赤い目が開かれた。
普通の人間ではなく賢者である事を証明する肉体的な特異点「マーリンの眼」だった。
そのエルデの三番目の目を見ても、【蒼穹の台】は眉一つ動かさなかった。さも当然だという風な態度でエルデの姿を見つめていた。
「うん、本物だね。だがその目の色はどうした?」
「!」
『目の色?』
【黙って】
「まあいい。でも君が本物の賢者だって言うのはさっき君がそう言った時に僕にはもうわかっていたことだけどね。君は嘘は言っていない。それにしても【二藍の旋律】は君のその目を見ても君が偽物だって言ってたのかい?」
エルデはうなずいた。
「あの子にも困ったものだね。賢者たるもの「徴」の真贋なんてすぐわかるだろうに……。まあ弟子の失礼は師である僕から詫びよう。すまなかったね」
「いえ」
「でも、わざわざ出向いてきたのにつまらない結果だったのがちょっと残念だよ。【二藍の旋律】程の使い手をやり込めた偽者は一体どれほどの奴なのかって会うのが楽しみだったんだけどね」
「先ほど【二藍の旋律】の師、とおっしゃいましたが」
「うん。彼女は今のところ僕のただ一人の弟子だよ」
「しかし、【二藍の旋律】は【真赭の頤】の弟子では?」
エルデのその問いかけに【蒼穹の台】、イオス・オシュティーフェはおや? という顔をしてみせた。が、それも一瞬ですぐに無表情になった。
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