第三十八話 テンリーゼン・クラルヴァイン 2/2

 テンリーゼン・クラルヴァインに関する些末な記録をつぶさに調べても、およそ純真で快活な子供らしい子供であったという記述はない。それよりも驚かされるのは、シルフィード王国の軍務大臣である大元帥ガルフ・キャンタビレイが多忙な時間を割いて、自ら長時間テンリーゼンと過ごしていた節が見られることであろう。

 また、テンリーゼンの養育についてはアプリリアージェを除いてもほんのごく少数の人間のみが関わっていたようであるが、これもガルフの指示の様である。その多くはキャンタビレイ家の古くからの雇い人や関係者ではなく、クラルヴァイン家に出入りしていた者でもない。キャンタビレイ文庫にも当時の侍従長の日記に「テンリーゼン・クラルヴァイン専属の新たな雇い人が数名屋敷に入ることになった」旨の記述がある程度で、いったい誰がテンリーゼン・クラルヴァインの直接の養育担当者であったのかは今日になってもいまだ不明のままである。

 キャンタビレイの屋敷内においてテンリーゼンに特別な教育がなされていたことは、軍での彼のその後の成功を見れば容易に想像がつくが、そうなるとそれは彼が文字通り年端もいかぬ頃より計画的に行われていたものだということになり、そのガルフの思惑が大いに気になるところだ。しかし、ガルフ自身の日記にはテンリーゼンに関する記述は極めて少なく、またテンリーゼン自身は当時の貴族としては珍しく一切日記などを付けない人物だったため、そのあたりは謎のままである。


 彼が軍に入隊したのは若干十二歳で、これも異例のことであった。飛び抜けた能力を有したフェアリーという触れ込みで、かつガルフ・キャンタビレイ大元帥直々の推薦により特例として軍に入ることになったのは間違いないところであろう。

「英雄」と呼ばれ、男爵の爵位まで勝ち取ったモーリッツ・クラルヴァインの一粒種という背景も手伝って、当初から軍では注目されていた存在であったに違いない。

 テンリーゼンは軍に入るとすぐさま実戦に投入された。それも当然のことといえる。「特例」で入っただけの実力を早期に見せる必要があったからである。

 彼は初戦から望外の戦果を部隊にもたらし、周りの疑心を払拭してみせた。千日戦争が終わった当時のシルフィード軍の軍務の多くは、スカルモールドと言われる異形の化け物を退治する事に加え、サラマンダ大侯国からの要請によるゲリラ討伐のための出兵、さらに北海付近の海賊討伐などが主であったが、どれも軍にとっては楽な任務ではない。

 記録をつぶさに検証するとそれらはむしろ実際の戦争であった千日戦争よりも困難な作戦が多かったようである。降伏という手段をとらない相手ではシルフィード軍側とてそれなりの被害は免れない。

 そんな戦いの中で、まだほんの子供であったテンリーゼン・クラルヴァインがどのような戦いをしたのかは想像の域をまったく出ないのだが、入隊一年後には下士官に、三年後には佐官にまでなっていたことは事実なのである。


「ドール」という二つ名であるが、極寒の北海の海にあっても一言の愚痴や文句を吐くどころか、どんな天候であろうと微動だにせずぽつんと甲板に佇む小柄な少年の姿を誰が言うともなく伝えたもの、という説が一般的のようである。入隊直後には物言わぬ小さな兵士である理由から「お人形さん」と呼ばれていたテンリーゼンは、北海の海賊討伐の部隊に編入されて後は本名であるテンリーゼン・クラルヴァインという名前よりこの「ドール」という二つ名の方が有名になっていった。つまり、彼は軍に入って日が浅いうちに父親の威光から完全に切り離された存在として認められていたわけである。


 また、テンリーゼンについては、その詳細な顔形についての記述がほとんどない。あれほど雑多な資料のあるキャンタビレイ文庫にしてもその容姿に関する既述はほとんど見られない。

 伝説において「顔中に醜悪な刺青を施された銀髪の物言わぬ小鬼」などと形容されるとおり、幼い頃に高熱の後遺症で出来た醜い痣を隠すために殆ど人前に顔を見せることはなかったという説が有力である。テンリーゼンに限っては、およそ英雄の容姿を美化するような口伝や既述がない。むしろ彼を描いた絵画の方が先に既成観念を確立しており、醜さを敢えて印象づける必要もないという配慮によるものかもしれない。

 種族はアルヴィンであることは間違いがないようだが、それ以外の特徴については銀色の長い髪と緑の瞳をしていたという程度の記述しか見つからない。

 理由はここまでの本文にもあるように、古代アルヴ族が戦いの時に施したと言われる茨と槍を意匠とした(と考えられている)曲線と直線による文様の入れ墨が顔中に描かれており、さらに平時ではその醜い顔を隠すために仮面をかぶっている事が多かった為であろう。要するに彼の素顔は不明なのである。

 また、本人が顔半分に入れ墨として施していた文様も、どういう意匠のものであったのかはもはや今日では知る由もない。多く残る彼の絵画には画家により創作された意匠がそれこそ星の数ほど描かれており、その中に決定版と言われるものがない。われわれはそれらを眺めながら想像するしかないのである。

 唯一の例外として、かつて高額紙幣に使われた事もあるほど有名な「双剣の風使い」という絵画がある。それには下ろした両手にそれぞれ短剣を持ち、その長い銀髪を強い風になびかせながら、昇ったばかりの朝日を見つめているアルヴィンの美少年が描かれている。「あれこそがテンリーゼン・クラルヴァインの肖像画であり、素顔である」と主張する夢想家も多い。その絵を描いた画家というのが、同時代を生きたミリア・ペトルウシュカのであるというのが彼らの「テンリーゼン肖像画説」の最大の根拠である。

 どちらにしろ想像がかき立てられる絵である事は確かであるが、今ではすべては謎のままである。


 テンリーゼン・クラルヴァインの顔半分に施されていたという入れ墨であるが、それがいつ入れられたかは不明である。だが少なくとも十二歳で軍に入隊した時にはすでにその入れ墨は施されており、そのあまりの醜さの為ガルフ・キャンタビレイの許可で常時仮面装着を許されていたとある。後遺症で出来た痣の多い顔半分に入れ墨を入れ、少ない残りの半分には刺青自体は施されてはいなかったようだが、こちらは本人が常に刺青に模して化粧として文様を描いていたことから、顔は常に全体が刺青に覆われていたようなものである。

 幼少にもかかわらず刺青を、それも本人の意思で施されていた理由は、高熱(一説ではアルヴ系の第二次性徴に伴う高熱期のものだという)により顔に抜けない痣が出来たのが原因ではあるだろう。だが、それは化粧でも良かったはずである。あえて消えることのない入れ墨とし、その意匠も戦闘のための文様を選んだのは、彼が自らの生涯を戦いに捧げる事を誓い、自身が強く望んだ事のようである。彼自身がガルフ・キャンタビレイに無理を言い、我を通して施してもらったものであることがキャンタビレイ文庫に残る雑文の中に読み取れるが、この点だけを抜き出してもテンリーゼン・クラルヴァインがおよそ普通の子供ではなかったことがわかるというものであろう。


 テンリーゼンが下士官になる頃には、すでに佐官となって部隊を率いる立場にいたアプリリアージェに彼女の幕僚格として招聘される事になった。

 以後テンリーゼン・クラルヴァインは常にアプリリアージェ・ユグセルとともに行動することとなるわけである。

 公式な文書ではアプリリアージェと同じ時期にル=キリアの一人として戦没者名簿に名を連ねているテンリーゼン・クラルヴァインであるが、アプリリアージェと同様、彼の名前が歴史上の舞台から本当に姿を消すのはまだ先のことになる。

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