第三十六話 黄昏の王立図書館 3/3
その声が小さすぎて聞き取れなかったアプリリアージェは、聞き直した。
「お姉ちゃんのその力をボクにおくれよ」
「私の力を、君に?」
少年はうなずいた。
「うん。ボクと一緒にたくさんの人を笑顔にする新しい世界を作ろうよ。ボク、いろんなところに行ったんだよ。たくさんの場所を回った。でも、お姉ちゃんみたいな力を持っている人には初めて会った。お姉ちゃんの力は、とても大きくて綺麗なんだ。それに、お姉ちゃんは目も綺麗だ。その黒い髪も綺麗……」
言葉が終わる前に、アプリリアージェは再び少年を抱きしめた。
さっきよりも強く。
「そうね……。でも、お姉ちゃんはもう決めたの」
「決めた?」
「ええ。私は見ての通りダーク・アルヴよ。アルヴ族なの。自分が一度決めたことは守らなければならないわ」
「アルヴ族?」
「アルヴ族の血を引く者はそういうものなの。けれど君のその思いは素晴らしいわ。たぶん、ファランドールのみんなが心のどこかで同じ事を思っていると思う。お姉ちゃんはずっと君の事を応援しているわ。だから君はお姉ちゃんの分まで頑張って、みんなの笑顔があふれるファランドールを作ってちょうだい」
その言葉を聞いて少年の顔がまた崩れた。金色の瞳から大きな涙が溢れては頬を伝った。
「ボクと一緒にはできない?」
「そうね。今はまだ。でも、やるべき事が終わったら……」
少年の両手がアプリリアージェの腰に回された。二人は再び抱き合うような形になった。
(暖かい)
初秋とはいえ、黄昏時だ。気がつけば部屋はいつの間にかけっこう冷えていた。それだけに抱き合った相手の体温が優しく、そしてありがたかった。
アプリリアージェは少年の体温が自分の体だけでなく心まで暖めてくれているような気分になった。そしてそんな気分を感じたのはそれが生まれて初めてのような気がしていた。
(できれば、ずっとこのままでいたい)
そんなことさえ思っていた。
だが、その安らいだ暖かい時間は長くは続かなかった。
少年が扉の方を向いた。
「ボク、もう帰らなきゃ」
そしてそう言うと、少年はアプリリアージェの腰に回した手の力を抜いた。
「帰るって……。ねえ、いったい君はどこから来たの? いつもどうやってここに入っているの?」
少年はアプリリアージェの問いには答えなかった。
「それでもボク、いつかきっと迎えに来るよ。だからお姉ちゃんはそれまでボクにくれたあの笑顔をずっと忘れないで」
「笑顔?」
「うん。絶対だよ。大きくなっても、お姉ちゃんの笑顔を見ればすぐにわかるから」
少年はうなずくとにっこり笑って見せた。焦げ茶色の髪が小さく揺れた。
「約束するよ。お姉ちゃんが笑顔を忘れない限り、ボクは絶対にお姉ちゃんの事も、今日の事も忘れないよ」
その言葉が終わると、それまで確かにそこあった暖かいものが、アプリリアージェの腕の中からかき消すように無くなった。
思わず辺りを見回したが、見慣れぬ民族衣装を纏った金色の瞳をした少年の姿はどこにもなかった。
アプリリアージェは呆然として、床にそのまま座り込んだ。
そして、今の出来事は現実の事ではないのだと当たり前のように感じていた。
(白日夢……なの?)
そう思ったその時、一つだけしかない部屋の扉がノックされ、一人の男が扉を少しだけ開いて、様子をうかがうように声をかけた。
「アージェ、そろそろ暗くなってきた。今日は終わりにしなさい」
だが、いつもはテーブルにかじりつくようにして様々な文献に頭を突っ込んでいるはずの長い黒髪の少女の姿が見えない。
驚いて周りに視線を移すと、その少女は何もない床に座り込んで両手で顔を覆っていた。
アプリリアージェの事をアージェと呼んだ声の主は、それを見て慌てて扉を開け、声をかけた。
「どうしたんだい、アージェ?」
「先生……」
「泣いてるのか。何があった?」
「あ……」
声の主は当時の図書館長だった。彼はアプリリアージェが当時身を寄せていた王国軍の大元帥であるガルフ・キャンタビレイの旧知であり、言わば特例で機密文書庫を彼女に閲覧させていたのである。彼は時間の概念がないかのように「文字」に没頭するアプリリアージェの時計代わりでもあった。
アプリリアージェは館長に指摘され、あわてて涙をぬぐった。自分が泣いていたことは指摘されるまで気付かなかった。涙は知らないうちに溢れて頬を伝い、顔を覆った指の隙間から床に染みを作っていた。
「今ここに、八歳か九歳くらいのデュナンの男の子がいたんです」
「なんだって?」
館長は驚いた声を出した。普通の人間が厳重な監視のある場所に入れるはずはないのだから。
「焦げ茶色の長い髪で、金色の瞳をした……たくさん色を使った、見たこともない綺麗な服を着ていました」
館長はゆっくり首を横に振った。
「いや、そんな子は見なかったよ。今日はアージェ以外は誰もこの部屋には入っていない。それは間違いないよ」
アプリリアージェは館長の言葉を聞くとしばらく無言になったが、やがてため息をついて独り言のように呟いた。
「そうか。やっぱり私、夢を見ていたのね……」
館長は部屋へ入ると、そっとアプリリアージェの側に寄った。
「怖い夢だったのかい?」
ゆったりとした落ち着いた声で問いかける図書館長に、アプリリアージェはかぶりを振った。
「いいえ、よくはわからないけれど、悲しいような優しいような、そして暖かい夢でした」
「そうか」
アプリリアージェは自分の腕を抱きしめるようにすると目を閉じた。そこにあの少年の体温の記憶を感じられるかも知れないと思ったからだ。
だが、もうそこに少年のぬくもりはない。ただ最後の言葉が思い出された。
『いつかきっと迎えに来るよ。だからお姉ちゃんはそれまでさっきの笑顔をずっと忘れないで』
アプリリアージェはその迎えとやらを待っていたいと本気で思った。そしてそう思った次の瞬間には自らの愚かさを悟り、そのせいで再び涙が溢れ、部屋がぼんやりと溶けていった。
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