第三十七話 賢者の弟子 1/4
「私はどのくらい気を失っていましたか?」
うとうとしていたエイルは、アプリリアージェのその声でびっくりして顔を上げた。
「目が醒めたのか。良かった。気分はどうです?」
【代わってくれるか】
『了解』
エルデは上体を起こしかけたアプリリアージェの体を支えてやりながらふとその顔を見ると、怪訝な顔をして尋ねた。
「なんや、リリア姉さん、泣いてるんかいな?」
「え?」
エルデがそう言った時、涙が一筋、アプリリアージェの頬を伝って形の良い細い顎から落ちていった。
アプリリアージェにはまったく自覚が無かったが、眠りながら涙を流していたのだ。
「あ……」
溢れた涙が、また一筋、頬に光る筋を作った。
「悲しい夢でも見とったんやな」
「いえ」
アプリリアージェはさらに溢れてくる涙を拭おうともせずに答えた。
「私が見たのは、とても大切で暖かい夢です」
【大切な夢、か】
『何だろうな』
【まあ、そんなもんは人それぞれやろ】
『まあ、そうだな』
【人の心にはいろんな思いが詰まってる。浅い詮索はヤボってもんや】
『お前にしちゃいいことを言うじゃないか』
【やかましい】
「その様子やと落ち着いてるみたいやな」
エルデは上体を起こしたままうつむくダーク・アルヴの細いうなじを見つめながら、小さく安堵のため息をついた。
「ふふ。私ったらまるで子供みたいですね。夢を見ながら泣いてしまうなんて」
「夢を見るのに大人も子供もないやろ。それより、ええ夢で良かったやんか」
「そうですね。ありがとう」
「まだ朝も早いし、もうちょっと横になっとき。休める間は休んだらええ。適当な時間になんか暖かいものを持って起こしにくるわ」
アプリリアージェは再び横になると、テントを出て行くエイル、いやエルデにもう一度「ありがとう」と言って見送った。
エルデの呪法が解けた反動に耐えきれず気を失っていたアプリリアージェは、驚いたことに丸一日以上目を覚まさなかった。
一行は次の作戦に移る為にアプリリアージェの回復を待ちながらそこにとどまっていた。
もちろん只とどまるだけでは追っ手であるスプリガンの格好の餌食になる可能性が高かったが、簡易ではあるが珍しく精霊陣まで使ったエルデの強力な結界で、彼らの気配は完全に絶たれていた。
「なあ、本当に火をおこしても大丈夫なのか?」
訝(いぶか)しがるアトラックに対し、エルデは憤然として言った。
「俺を信用でけへんのか!」
「いや、別にそういうわけじゃあ」
「なら、どういう訳やねん、言うてみ!」
結構な剣幕で睨み付けられたアトラックは首を竦めて謝った。
「そう噛みつくな」
「まだ噛みついてへんっ」
「抑えてくれ。我々のような普通の人間にそう言うことをすぐさま信じろと言う方が無茶と言うものだ。俺達はもともとルーナーとの接触があまりないからな」
珍しくファルケンハインがアトラックの擁護に回ったが、それは擁護と言うよりもむしろ自身も全く同じ疑問を持っていた事からくるものだろう。
エルデはアトラックが集めてきた薪用の柴をいくつか重ねると、さっと手をかざすだけで小さな火をつけた。そのたき火から空に向かって遠慮無く立ち上ってゆく煙をファルケンハインとアトラックが不安げに見送った。
「ファルやアトルが自分を普通の人って言うても全然信憑性無いけどな」
パチパチと勢いよく燃えあがってきた炎とエルデを交互に見比べると、ファルケンハインは再度口を開いた。
「絶対に見つからない結界なんだな?」
「くどい男は嫌われるで。特に女性には」
エルデは即答するとその場にどっかと腰を下ろし、たき火に手をかざした。
「精霊陣まで使うた俺の結界を破ることが出来るのは、俺より圧倒的に強いルーナーだけや。そんな人間はファランドールにはたぶん居てへんから実質的に不可能や」
「たぶんって……そりゃ、大した自信だな」
ファルケンハインはそう言うと、しかしエルデと同じようにたき火の前にどっかと腰を下ろして座り込んだ。
「ふん」
自分の横に座ったファルケンハインをちらりと横目で見やると、エルデは気に入らない風に鼻を鳴らした。
「こんな子供が、とか思ってるんやろな。でもまあ、それはもうええ。ただし、これだけは言うとく。俺は自分の能力について誇張したり、出来へんものを出来る言うたりはせえへん」
「いや、エイルがすごいルーナーだって事は俺達はみんなもうわかっているさ」
そう言うアトラックをファルケンハインはチラリと睨んだ。お前のなすべき仕事をしろと言う合図である。ちなみにアトラックは簡単な食事を作る係であった。
ファルケンハインは会話を続けた。
「だが、そのエイルすらかなわない師匠が存在するという」
「何が言いたいんや」
「話は元に戻るが、つまりこの結界が本当に誰にも破られないのか、と言う事だ」
エルデはため息をついた。
「俺達はここで倒れるわけにはいかないんだ」
「そんなことは、ウチらも同じや」
【あ。しもた!】
『ばーか』
「ウチら?」
ファルケンハインは怪訝な顔をしてそう返した。
「今は、その質問には答えとうない」
エルデは声のトーンを落とすと、視線を炎に向けた。
「わかった」
ファルケンハインはそれだけ言った。アトラックは期待に満ちた目で二人の会話の成り行きを見守っていたが、核心には辿り着かないことを知って、いかにも残念そうに肩を落とした。
「正直言うと、俺の結界が金輪際破られへん、と言う保証はない。ただ、誤解があるようやからこれだけは言うとくけど、俺の能力は師匠を掛け値なしに凌駕する。もちろん能力以外の要素があるから、全てで上回ってるっちゅう意味やないけどな」
「ほう」
「俺が師匠から手取り足取り教わったんは、実はルーンや呪法なんかやない」
「ルーンじゃない?」
エルデはうなずいた。
「夕べも言うたけど、そもそも師匠は回復系ルーナー……ハイレーンやないし、そっちのルーンについて俺に教えられることは限られてるしな。そやから師匠が俺に指導してくれたんはむしろ精神面や」
「精神面だと?」
「ルーナーは普通、師匠について自らの力を増す為の修行をするわけや。もちろんルーンを覚える事も修行の一つやけど。でも、俺は制御ばかりやらされた」
「つまりお前は力を弱める修行をしてきたと言うことか」
「ルーン自体はただの言葉や。その言葉を読んだり暗記したりするのは誰でもできる。せやけど、普通の人間がたとえそのルーンを正しく唱えてもルーンの持つ力が発動することは無い。それは今現在の俺でも同じや。ただルーンを読むことは詠唱とは違うんや」
「なるほど」
「ルーンの発動はその内容が自分の頭の中で現象として完全に浮かび上がるかどうかが、まずそもそもの前提や。それに精霊波、つまりエーテルが呼応するかどうかっちゅう次の段階に入るわけや。つまり詠唱することによって生じるエーテルの流れとその変化を自然に理解して自分の通常動作の一部に出来るかどうか、や。たとえば……そやな」
エルデはそう言うと耳をそばだてながらも焚き火を利用してかいがいしくお茶を入れているアトルの方を見て声をかけた。
「アトル!」
「ん?」
エルデの思いがけない呼びかけにアトルは驚いた。
「その、手に持ってるカップを地面においてくれへんか?」
アトラックはエルデに言われた言葉の意味がわからない、と言う風にファルケンハインに助けを求めるように視線を移した。しかしファルケンハインは言うとおりにしろ、と言う風に顎を少し出して急かせた。
「こう、か?」
アトラックは言われたようにカップを地面にそっと置くとエイルの方を見やった。
「今、何を考えてカップを置いた?」
「は?」
「いや、カップを地面に置くときに、何か一生懸命その事を考えて置いたか? って聞いてんねん」
「いや、別に一生懸命考えては置いてないけど」
エルデは満足そうに微笑した。
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