第三十六話 黄昏の王立図書館 2/3
「逃げろ」
アルヴの声はそう告げていた。
「私の事はもういいのです。私は海賊の一味です。仲間の大事な宝物をあるところに隠して逃げていたのです。そこで嵐に遭い、あなたに助けていただきました。だから今度は私が助ける番。私が隠した宝物のありかと引き替えに、あなたたち親子を外海に逃がす約束を取り付けたのです。だからお逃げなさい。そしてもう、人間に近付かないように、楽しく暮らして下さい」
母子はその言葉を聞くと、アルヴが落ちた場所に向かって一目散に泳ぎだした。子クジラ達もそれに続いた。
「人間よ。我らがクジラ族を見くびるな。一度助けると誓ったのだ。ならば最後まで助けるのが我らの矜恃。待っていろ、今助ける」
だが、捕鯨船団は戻ってきたクジラ達に一斉にモリを打ち込んできた。
するとその時、まばゆい光に包まれて、その場に声が響いた。優しく響く声はそこにいた全員に聞こえた。
「今宵は『合わせ月』。お前達はこの特別な日に何を争う?」
声はマーリンであった。全能の神は三者の言い分を聞くと、まず捕鯨船団に申し渡した。「今後、子連れのクジラをおそう事なかれ」
次に母クジラを叱った。
「クジラには矜恃はいらぬ。ただ、我が子を守る事を最優先とせよ」
そして最後にアルヴに告げた。
「海賊であった罪は死に値する」
マーリンがそう言うと、けがをしていたアルヴは息絶えた。マーリンはしかし、そのアルヴに向かって問いかけた。
「だが、最後にお前が行った事は、まさにアルヴの矜恃にふさわしい。『合わせ月』の祝いじゃ。一つだけお前に褒美をやろう。今まさにその生を再生しよう」
死んだアルヴはそれを聞くとマーリンに申し出をした。
「生き返らせてもらえるならば、アルヴではなく、クジラになりたい」
と。
マーリンはそれを聞き入れ、アルヴはクジラの姿で生き返った。
アルヴだったクジラは、母クジラと子クジラと共に、そのまま外海へ泳ぎだしていった。
それ以降、子連れのクジラを捕獲する事はファランドールでは禁じられたという話であった。
アプリリアージェはその絵本を夢中になって読んだ。
最後の頁を読み終えて顔を上げると、そこにはもう、金色の目をした少年の姿はなかった。
次の日も、そしてその次の日も、少年は現れた。
少年は毎日違う絵本をもっていた。
アリクイとアリが、アイスとデヴァイスに行って、それぞれ平和に暮らす話。
裏山にひっそりと暮らしていた夕顔の精が、農家の娘を見初める話。
リスが地面に隠したクルミが一晩で大きくなって、昼星の光を遮ってしまう、黒い森の話。
どれも「楽しい話」と単純には言い切れない話ばかりだったが、最後にはマーリンが出てきて誰もが悪くないと思える結末にまとまるものだった。
そして、アプリリアージェは毎回いつのまにか本の内容に夢中になり、読み終えて顔を上げると少年が煙のように消えてしまうのを体験していた。
ばかばかしいとは思いながらも、いつしかアプリリアージェは少年の事を絵本の精だと思うようになっていた。
金色の少年とはじめて出会ってから、一週間ほど過ぎたある日。
アプリリアージェはいつもと同じ場所で、円卓に広げた文献を見て呆然としていた。それはアプリリアージェにとって忘れることの出来ないものであった。
円卓の上に広げられたのは大昔の戦争の報告書集の一つであった。そこにはかつてファランドールで繁栄していたピクシィという人類が絶滅に至ることになった経緯が詳細に記されていたのだ。
その文献に出会ったときの衝撃は例えようもなく大きなものだった。幼くして両親を亡くしたアプリリアージェだが、その両親との永訣(わかれ)の時の衝撃よりも大きかったと言えば、少女時代のアプリリアージェが受けた衝撃の大きさが多少なりとも理解できるかも知れない。
だから……少女時代の自分が開いているその頁の記述は詳細に覚えていた。
夢の中の小さなアプリリアージェは、もう何度も読んだはずの文章を短い指でなぞりながらもう一度、さらにもう一度と読み返した。
読んでいるうちに体の奥の方が熱くなり、知らず知らずに少女の目頭にはうっすらと涙がにじんでいた。
その時である。
声がした。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
少年の声だ。
そしてそれは目の前から聞こえてきた。
アプリリアージェは、険しい表情で窓の外を眺めながら、少し考えてから少年の方を見ずに答えた。
「私にはこの命を捧げて守ろうと決めた人がいるの。その為には何だってできる強い人間になる必要があるのよ。だから私は勉強しているの。人を守るためにはいろんな事を知る必要があるのよ。人を殺す方法もそう。だって、たとえ一度でも負けてしまえばそれで終わりだから。マーリンなんて、この世にはいないのよ。絵本の中にはいるけれど」
少年はしかしアプリリアージェの回答に満足してはいないようだった。
「お姉ちゃんが守りたい人ってそんなに大切な人なの? 他人を殺してでも守らないといけないほど?」
その問いにアプリリアージェは迷い無く答えた。
「ええ。とても大切な人よ。その人を守ることは私達の住んでいるこのファランドールを守ることときっと同じ事なのよ」
「お姉ちゃんがその人の為に殺す人達は、ファランドールの一部じゃないの?」
「それは……」
アプリリアージェは驚いた顔で少年を見た。自分をまっすぐに見つめる金色の瞳を見ると、何も言葉が出てこなかった。
「ファランドールを守る為なら、一人や二人の人間くらい殺してもいいなんて、おかしいよ。ファランドールにいるみんなを守ることがファランドールを守る事なんじゃないの?」
答えあぐねるアプリリアージェに、少年は続けてそう問いかけた。問いかける少年の特徴的な金色の瞳が心なしか曇って見えた。
アプリリアージェは少年から再び窓の外に視線を移すと、ゆっくりと自分に確認しながら噛みしめるように答えた。
「そうね。あなたの言うとおり、私の言っていることはおかしいわね。私は実はファランドールなんてどうでもいいのかも知れないわ。ファランドールを守るというのは自分がこれから犯そうとしている罪に対する言い訳なんだと思う。私はただ、その人一人だけを守れればあとの事はどうでもいいのかもしれない」
そこまで言ってから、視線を少年に戻した。
すると、アプリリアージェの言葉を聞いていたその少年の両の目から突然涙が溢れ、結んだ口がゆがんだ。
アプリリアージェはそれを見ると慌てて椅子から腰を上げた。
「どうしたの? なぜ泣いているの?」
少年はかぶりをふった。
「わからない。でもお姉ちゃんの顔を見ていると、ものすごく悲しくて、そして怖くなったんだ」
「え?」
「お姉ちゃんは、なぜそんな寂しそうな顔をしているの?なぜそんなに辛そうなの?」
「君……」
「お姉ちゃんは笑っている方がずっと綺麗だよ。ボクと一緒に絵本を読んでいる時の、あの緑色に輝く素敵な顔がボクは大好きだよ。そんな寂しい顔や悲しい顔なんてしないでよ」
少年の言葉にアプリリアージェは胸を突かれた。言葉にはならない何かが、心の奥からこみ上げてきて、そして表面に近づくとじーんと痺れるような、そんな不思議な感覚に襲われた。
「君はいったい誰なの? 名前は何というの?」
アプリリアージェは初めてここで少年の存在を疑問に思った。
そしてそのことが自分でも不思議だった。
いままでなぜその少年の存在を当たり前のように受け入れ、会話をしていたのだろうか?
「お姉ちゃんの力は大きいね」
「え?」
少年は突然話題を変えた。
力とは、フェアリーの力のことなのだろうか。
アプリリアージェの持つフェアリーとしての力は、幼い頃から特別なものだと周りには言われていた。そして少年に出会う頃になると自分自身でその力が相当なものだと理解出来るようになっていた。
しかし、なぜ見知らぬ人間、それも自分よりずいぶん年下の少年がその事を知っているのだろうか? アプリリアージェの少年に対する謎はどんどん深まるばかりだった。
「その力はきっとたくさんの人を笑顔にする力なんだよ。ボクにはそれがわかるんだ。だからお願い。その力をたった一人のためだけに使わないで。その力を大勢の人の命を奪うために使わないで」
見たこともないゆったりとした仕立ての民族衣装を纏った少年はそう言うと、そのたっぷりした袖口であふれ出る涙を拭った。
アプリリアージェは少年の方に歩み寄ると、傍でしゃがんだ。小柄なアプリリアージェだったが、普通に立つとその少年より背が高かったのだ。デュナンの少年はそれほど幼かった。
少年の焦げ茶色の髪を撫でると、アプリリアージェはそのままそっと抱き寄せた。
「ありがとう、不思議なぼうや。でも、君には一体私の何が見えているのかしら」
「お姉ちゃん……」
少年は片腕をアプリリアージェの背中に回して遠慮がちに抱きしめた後、もう片方の袖口で再び涙を拭った。そして目の前の黒髪の少女が持つ緑の瞳をまっすぐに見つめて小さな声で呟いた。
「え?なあに?」
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