第三十六話 黄昏の王立図書館 1/3
アプリリアージェは夢を見ていた。
いつもの夢だ。
周りの様子はぼんやりとしたものたが、そこがエッダの王立図書館の一隅(いちぐう)にある特別な個室であることはわかっていた。なぜならまだ幼い頃、アプリリアージェは来る日も来る日もそこで一日の大半を過ごしていた時期があったからだ。目を閉じればすぐにまぶたに浮かぶような、言ってみれば掌の中にある自分自身の原風景の一つと言ってもよかった。
アルヴの大人が二十人ばかり着くことが出来そうな大きくて頑丈な樫の円卓が部屋の中央に置かれており、三方の壁は書棚で埋まっていた。各書棚は十段ほどで、壁の上方には別途書架がしつらえてあった。
残る一方には書棚のない壁があり、こちらは上方に書架もない。壁のほぼ中央には明かり取りになる窓があり、そこからエッダの空が見えた。
アプリリアージェはその部屋で円卓に何冊もの文献を広げて読んでいた。
幼い頃の癖なのだろう。頁を押さえていない片方の指が、伸ばした黒髪の先をくるくるともてあそんでいた。
その小さな手と背中まで伸びた長い髪が、少女時代の自分のシンボルマークであったことを、彼女は思い出していた。
小さな指で文字列を追いながら、アプリリアージェは浮かない顔をしていた。退屈だったのだ。この頃になると、文献から新たな驚きや感動を得られなくなっていたこともあるが、まだ幼いアプリリアージェにとって、一日中たった一人で文字と遊んでいる行為そのものがつまらなく思えていた時期であった。
円卓に無造作に開かれた文献の多くは歴史書で、その頃は特に戦術書や戦記、過去の戦争に関する体系的な考証が行われている検証戦記録と呼ばれるものだった。
彼女は絵本や物語などを読んでいたのではなかったのだ。
「お姉ちゃんは、いつも独りなんだね」
突然の声にアプリリアージェは思わず小さな叫び声を上げると、声が聞こえた後方をおそるおそる振り返った。
そこには、見慣れぬ一人の少年が立っていた。
まだ幼かったアプリリアージェよりもさらに年下と思える焦げ茶色の髪をした幼い少年が、まぶしそうな顔をして黒い髪の少女を見上げていたのである。
種族はデュナン。
まだあどけない顔をしたその少年の瞳は珍しい金色で、その目を見ていると、不思議な事にアプリリアージェはそこに自分の顔が映っているのがはっきり見えるような気がした。
この部屋にアプリリアージェ以外の人間が入り込むことなど考えにくかった。ましてや王立図書館の機密文書庫にある個室である。子供が入り込むことなどあり得ないはずであった。
だが、アプリリアージェはなぜかそんなことを疑問にさえ思わなかった。ただ、その少年の金色の瞳に釘付けになっているだけの自分に気がついて、妙な気分におそわれていた。それは突然現れた不思議な少年に対しての驚きや警戒心を、もう一人の自分が、そんな事を思う方がばかばかしいのよ、とでも語りかけているようだったのだ。
その気持ちが一体何であるのかはわからない。ただ、アプリリアージェは、気付くと自然に微笑みを浮かべていた。
「なぜお姉ちゃんは毎日毎日そんな本ばかり読んでいるの?」
自分に向かってほほえみを浮かべた長い黒髪の少女に、少年は重ねて尋ねた。
「え?」
アプリリアージェは、少年の指摘に虚を突かれたように目を丸くして驚いた。
少年は円卓の上に乱雑に放り出されている大量の本の山を指さした。
「お姉ちゃんが読んでいるのは、人殺しの記録や戦う方法が書かれた本ばかりだね」
「そうね」
アプリリアージェは手元で開いていた分厚い文献の綴りを閉じると、小さい窓から見える夕焼けの空に視線を移した。
少女の頃のアプリリアージェはあまり笑わない子だった。アルヴ族はあまり表情が豊かではないと言われているが、彼女は特に無表情な子供だったのだ。だから普段、微笑みはない。幸いな事に彼女は目尻が少したれているせいで普通にしていると優しそうな表情の子供に見えていたが、誰も普段、彼女が笑うところを見たものは居なかったのだ。
その時も、少年に向けた一瞬の微笑はすぐに消え、すぐにいつもの無表情になっていた。
ある事に思い至ったからである。
「キミは、書いてある事がわかるの?」
少年は当たり前だという風にうなずいた。
「ここはそんな本ばかりを集めてあるところだね」
周りの書架を見渡しながら、少年はそう言った。
「向こうの部屋には、もっと楽しそうな本がたくさんあったよ」
「そう……」
アプリリアージェは不思議そうに少年の瞳をみつめた。
「あ」
不意に少年は小さく叫ぶと、扉の方を見て体に緊張を走らせた。
「ボク、もう行かなくちゃ。またね。お姉ちゃん」
そう言うとアプリリアージェが声をかける前に駆け出して、扉の向こうへ去っていった。慌ててアプリリアージェは後を追ったが、扉を開いて廊下を見渡しても、少年の姿はなかった。
その代わりに見慣れた青年の姿を認めた。図書館の館長である。
アプリリアージェに閉館を告げに来たのだ。
不思議な事に、アプリリアージェはその少年との出会いを誰にも話さなかった。本来ならば普通の人間が迷い込めるはずもない場所に少年が入り込めた事がそもそも問題になるはずだった。
だが、アプリリアージェは少年に危険を感じなかったし、何よりその不思議な出会いを自分の胸の中だけにしまっておきたい気分だったのだ。
数日後、また、突然少年が現れた。
人の気配を感じて顔を上げると、そこにいたのである。
その日の少年は満面の笑みでアプリリアージェを見つめていた。よく見ると、どうやら後ろ手に何かを持っているようだった。
「なあに?」
「楽しい本を持ってきたよ。一緒に読もうよ」
そう言うと金色の目をした少年は、一冊の絵本を差し出した。
「絵本ね」
「鯨の話なんだ」
そう言うと少年はアプリリアージェの隣の椅子に腰掛けて、その本を円卓の上に広げた。アプリリアージェは開かれた本をのぞき込んだ。
藍色の海の中にマッコウクジラが描かれていた。子供クジラが二頭、そしておそらくその母親が一頭。
クジラの親子はエサを求めてファランドール中の海を旅していた。子クジラ達は、その道程で様々な生き物たちと出会い、見聞を広げていった。
そしてある日、見た事もない生物とであう。人間である。
絵はアルヴのようだった。
陸の見えない海の上で、小さな板きれのような小舟でたった一人、漂流していたアルヴを、子クジラが見つけ、助けるという話だった。
母クジラははじめ、アルヴを助ける事を反対した。アルヴが漁師である事に気付いていたからだ。だが子クジラ達の説得で、母親は自分の口の中にアルヴを入れて海をわたり、アルヴの住む町を探して回った。しかし、尋ね回った漁村はどこもアルヴのふるさとではなかった。
そんな折り、とある湾で眠っているところを、クジラ漁の船団に親子は取り囲まれてしまう。その船団には、なんとアルヴが乗っていた船があった。
その事を知らされた母クジラはアルヴに頼んだ。自分の命と引き替えに、子供達を逃がすように説得して欲しいと。
大きな親クジラと戦えば、漁師達にも被害が出る。クジラ漁とはそれほど危険な漁でもあった。母クジラの申し出は悪い話ではなかったのだ。
アルヴは泣きながら母親に礼を述べ、命に代えても子供達を守ると誓って、自分の船に戻った。
固唾を飲んで成り行きを見守っていると、やがて船団が左右に分かれ、湾から外海へ続く海路を開いた。クジラの為の通路である。母親は子クジラ達を連れ、おそるおそる泳ぎだし、船団の中央に来たところで、子クジラ達を先に行かせた。母親とアルヴの約束を聞いていた子クジラ達は母親との別れをいやがって泣きじゃくったが、約束を守る事はクジラ族として命よりも大事な事なのだと諭し、ようやく外海に追いやった。だが、母クジラの目の前の船の舳先に立つあのアルヴは、大声で母親に叫んだ。お前も逃げていいのだと。
母クジラは訳を聞いたが、アルヴは仲間を説得できたのだとしか言わなかった。人間がそんなに甘いものではない事を知っていた母クジラだったが、アルヴの言うとおりに外海へ出た。船団から少し離れたところで様子をうかがっていた親子は、舳先にいたアルヴが誰か知らない他のアルヴに剣で刺されるのを見た。そしてアルヴはそのまま海に落ちた。
母クジラは、慌ててアルヴの落ちたところへ泳いでいこうとしたが、その時、耳元にアルヴの声が聞こえてきた。
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