第三十五話 アロゲリクの庵

「ここか」

 呟くともなしに声に出た。

 三聖蒼穹の台(そうきゅうのうてな)ことイオス・オシュティーフェは青白い精杖を左手に持ち、岩肌が見える切り立った崖の下に居た。

 アロゲリクの渓(たに)と呼ばれる場所で小柄な彼が見上げるのは、遠い昔に地殻変動で隆起し、あらわになった山の内部だった。それは長い年月をかけてその表面を削られ、磨きあげられ、美しく鍛え上げられていた。

 所々に亀裂があるものの、そのむき出しの崖はどうやら一枚岩で出来ているようだった。

「はい。これが、《真赭の頤(まそほのおとがい)》が各国の首脳に送りつけたと言われる庵の一つです」

「『《真赭の頤》を騙る人物』の間違いだよ、《菊塵(きくじん)の壕(ほり)》」

「御意」

 《蒼穹の台》は少し離れたところに同じように精杖を持って佇む壮年のデュナンの男にそう答えた。


《菊塵の壕》と賢者の名で呼ばれたデュナンの男は、正教会に残る記録によれば《真赭の頤》ことシグ・ザルカバードと同じくマーリン正教会の「大賢者」という地位にある人物であった。現名(うつしな)をシャレイ・カンフリーエと言う。族名で解るとおりファーン・カンフリーエの親族で、実の兄であったと伝えられる。兄と妹の種族が違うのは母親の違いからくるものであろう。

 すなわち、ファーンは両親共にアルヴ族であり、シャレイは正確に表現するならばどちらかがデュナンであるデュナン系の混血、「デュアル」という事になるが、詳細がわかる記録はない。

 

「さて、何の変哲もない一枚岩の扉に見えるけど、これを開けると一体何の仕掛けがあるのやら」

《蒼穹の台》はそう呟くと精杖から手を放した。そして目を伏せて腕を組んで、考え込むような仕草を見せた。こういう態度を取る時の《蒼穹の台》が実際には何も考えていないことを《菊塵の壕》ことシャレイはよく解っていた。その場にいるもの、つまりシャレイの意見を聞きたがっているのである。

 心得ているシャレイはもちろん、その小さな金髪の三聖に声をかけた。

「ご存じのように他の同じような庵では、シルフィード王国軍の精鋭が少数ながら突入した際は全員命を失ったと聞き及んでおります。従って何らかの設置式ルーンによる罠の可能性が高いと思われますが、ここから見たところ精霊陣もないようですし、正直申し上げまして現段階では私には皆目検討がつきません」

 イオスはシャレイの言葉を聞くと顔を上げた。

「ただの空洞か、ボクの知らない未知の術が仕掛けられているのか……。どちらにせよ大賢者がしっかり調べて分からないのにボクなんかが一見した程度で分かるはずももない、か。つまり、ここはひとまず入るしかないようだね」

「では、私が」

「いや」

 イオスはシャレイの申し出を即座に却下した。

「ここまで近づいても全く気配を感じないからくりには興味が湧いたよ。この身で確かめたいね」

 

《蒼穹の台》がこういういい方をする時は、自分の意見が受け入れられないことを《菊塵の壕》は理解していた。

 つまりはこう言うしかないのだった。

「承知いたしました」

「すぐに戻る。ここで待っていてくれ」

「はい」

 後ろ姿のままシャレイにそう言うと、イオスは宙に浮いたままの青い精杖を手に取り、ずいっと岩壁に歩を進めた。

 一歩、二歩。

 そして手を伸ばせば岩肌に手が着くまで近寄ると、彼は青い精杖を高く空にかざし呟くような声で何事かを唱えた。

 ごく短い詠唱が終わると、イオスは今度は杖の頭で岩壁をトンっと叩いた。すると何の音もなく岩肌に、アルヴが一人横を向けばなんとか通れそうだと思われる程度の亀裂が現れた。

 やはり仕掛けはあったのだ。

 問題はその内部なのであろうが、イオスはしかし何のためらいもなく無造作にその亀裂の奥へ入っていった。アルヴがかろうじて入れる程度の亀裂は、小柄なアルヴィンのイオスにとってはさほどやっかいな狭さでもないようで、ひょいひょいという感じで奥に歩みゆくイオスの姿をシャレイはただ見送る事になった。

 

《菊塵の壕》シャレイ・カンフリーエがいわゆる「ザルカバード文書」の存在を知ったのは、おそらく各国の主立った人間がその存在を知った時期とほぼ同時期であろうと思われる。しかし、正教会の賢者会はその件を無視することに決めていた。大賢者がそう通達したからだ。

 そもそも二年前にシグ・ザルカバードこと大賢者真赭の頤が「処分」されこの世に居ないことは賢者会では誰しも知っていることであった。従って少なくとも差出人については既に存在しない人間だと言うことが解っていた。

 では内容についてはどうか?

「エレメンタルの所在を知っている」旨の記述があるとされる「ザルカバード文書」だが、その点については正教会としても興味を持ってしかるべきである。しかし賢者会は文書自体を無視し、各国からの問い合わせには賢者会の下部組織ながらマーリン正教会の公式の代表者である大神官を使って「正教会と関係なし」という正式な見解を出していた。

 だが、その実は違ったようである。

「ザルカバード文書」に記された世界中に散らばる十三の庵の調査に、大賢者は自らが当たっていたというのだ。

 四人しかいないと言われる大賢者がそのような不確かな情報に対して行動を起こすというのは極めて異例と言えた。《真赭の頤》がその座を空けてからは後継は現れておらず、当時大賢者は三人体制であっただけに、なおさらである。

 いや、実は「ザルカバード文書」の調査に当たった大賢者はそもそも《菊塵の壕》ことシャレイただ一人である可能性が高かった。その詳細についてはここでは記さないが、当時健在であった三名の大賢者のうち、いわゆる公務をこなしていたのは《菊塵の壕》だけであった事が正教会の記録を見ればわかる。

 シャレイはいくつかの庵をあたってみたものの、見つけたものはどれもただの祠や洞窟で、そこでは特に収穫が得られなかった。

 ただの徒労だと思い始めていた時に、他の庵でル=キリアの死体が発見されたという報が入った。

 シャレイはその意味するところをはかりかねていたのだが、そんな折りに突然蒼穹の台から声がかかった。ランダールに行くついでに、その妙な庵を見たいというのだ。すなわち一番近い場所にあったアロゲリクの渓に白羽の矢が立った格好であった。

 三聖ほどの立場にいるものが直接手を下すような案件ではないと思いつつ、さりとて賢者会には任せられない重要事項である事も確かである。なにしろ「元」大賢者真赭の頤に関する案件なのだ。

 つまりはイオスの申し出を断る理由は特になく、快く案内を引き受けたシャレイであった。 

 とはいえ、アロゲリクの渓にある庵についてはすでに調査済みで、

「ただの隠し洞窟」

 シャレイはそう結論を出していた。

 そもそも「ザルカバード文書」自体はル=キリアの小隊が殺害されたという事実がなければ「手の込んだ悪戯」だと結論づけてもいいような案件のはずであった。隠し洞窟などファランドールには幾らでもある。それらを使った愉快犯の様なものとして看過する程度のものだと考えていた矢先であった。

 ただ、《真赭の頤》と「エレメンタル」という言葉を使い、一体誰がそういう意味のない、幼稚に過ぎる悪戯をする必要があるのかは大いなる謎であった。

 

 しかし、被害が出た。

 さりとてこれと言った手がかりはない。

 謎は深まる。

 だから、もしや三聖なら何か手がかりを見つけられるのではないか?


 そう期待もしていた。

 だが、庵を目の前にざっと様子を見ただけの段階では、結局何も進展してはいなかった。

 シャレイは半時ほどその場でじっと岩を見つめていたが、ようやく目の前の亀裂の奥から土を踏む足音が聞こえるのを確認した。

 程なく、入った時と全く同じ青いローブ姿のイオスが現れた。表情にも特に変化はない。要するにその表情からは調査の結果は読めなかった。

 

「待たせたね」

「いいえ。それよりも如何でしたか?」

「わからないよ」

「そうでしたか。やはり……」

「ここの仕組みは分かった。わからないのは一体誰がこんな仕掛けを作ったのか、という事だよ、《菊塵の壕》」

 シャレイの眼が見開かれた。

「仕組みが、おわかりですか?」

 イオスはつまらなさそうにうなずいた。

「君にはわからないはずだよ。この洞窟にある精霊陣には強力な不可視処理が施されていたよ」

「内部に精霊陣があったのですか?」

「そう。廻りにはない。内部に狭い範囲で描かれていた。ただしやっかいなことに発動するまで不可視ときている。ボクにも見えなかったよ。だからおそらく誰にも見えないだろうね」

「それを見つけられた、と?」

「何、簡単な事だよ。ボクがル=キリアになってみれば良かったのさ。答えはそこにあった」

「と、申しますと?」

 イオスはローブについた土の汚れをパンパンと叩きながら、抑揚のない声で答えた。

「いろいろやって解ったことだけどね。ル=キリアだけが被害に遭ったと聞いて、試しに強い風のエーテルだけを纏ってみたのさ」

「なるほど、ル=キリアになるというのはそう言うことですか」

「言い換えると、この洞窟の精霊陣は強い力を持つ風のフェアリー……ここに来る可能性がある者と言ったらル=キリアだろう? つまりここは彼らの為にだけ作られたものだということだ」

「それは、一体?」

 イオスはシャレイをちらりと見るとため息をついた。

「だから言ったじゃないか。それがわからないんだよ、菊塵」

 そう言うとイオスは今し方入っていた洞窟を振り返り、青白い杖を無造作に振って見せた。すると洞窟の中から耳にかろうじて聞こえるほど低いうなりが聞こえたかと思うと、地面が揺れ、同時に土埃のようなものが亀裂から吹き出した。

「どちらにしろここが危険なものだということは確かだ。精霊陣は破壊した方が良いだろう」

「御意」

「もっとも、もうこの罠は目的を達してるのかも知れないけどね」

「設置した相手を特定せねばなりませんな」

 イオスは内部を破壊した洞窟を興味がなさそうに一別すると、踵を返して歩き出した。

「《菊塵の壕》」

「はっ」

「急ぎ帰って、大賢者達にはこのことを伝えておくれ。どうやら我々が思っているよりも早くファランドールの歴史が変わる気がするんだ」

 シャレイは立ち止まらずに喋る小柄なアルヴィンの後ろを追った。主人の少し後ろ、一定の距離を開けて歩くのがシャレイの定位置のようだった。

「三聖には?」

 少しの逡巡の後、シャレイはイオスの後ろ姿に声をかけた。

「連絡なんかとれないだろう」

「左様ですな。それで猊下は?」

「ボクはこの近くで人に会う用がある。それが済んだらお前の後を追って「前座」へ戻ろう」

「承知いたしました」

 それだけを言うとシャレイはイオスの後ろ姿に深々と礼をして、精杖を手にイオスとは反対側へ走り出した。


 イオスは背中でシャレイが遠ざかるのを感じながら、自身はゆっくりと歩を進めながら頭の中を整理していた。 

(心当たりは、あるにはあるが……)

 どちらにしろ少し考える時間が必要だった。

 正教会の三聖と呼ばれる彼をして、動き始めたファランドールの歯車の音がすべて聞こえている訳ではないのだ。


 イオスは林の中で不意に立ち止まると、精杖を掲げて何かを呟いた。

 すると青白い精杖は淡い乳白色の光を拡散し、彼の体を包んだ。そしてその光が消えた時、そこにはもう誰の姿もなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る