第三十一話 キャンセラ 3/8
「司令、お怪我などは?」
ファルケンハインの声にアプリリアージェは首を振った。
「ファルは気づかなかったようですが、最初にエイル君は私に何らかの強化か防御のルーンをかけてくれて、その後であの弱い炎をかぶせただけです。だから何ともありませんよ」
「でも、俺だったらサラマンダ……の下りあたりを聞いたらとりあえず逃げてますよ。いつもながら度胸ありますねえ」
アトラックは感嘆というよりも半ば呆れたという風に言った。
それを受けてアプリリアージェは手に持ったままのカップから紅茶を一口飲んで、ほっとため息をついた。
「簡単な事ですよ。考えてもご覧なさい。まず第一にエイル君が今ここで私を傷つける理由がありません。キャンセラの事を黙っていた事についてはお冠のようでしたが、そんなことで他人を殺傷するようなエイル君じゃないことはみんなもうわかってることではないですか」
アトラックは頭を掻いた。
「まあ、そりゃそうですがねえ」
「それに、エイル君が私達の前でルーンを全文詠唱して見せてくれたのは初めてでしたね。ポピュラーな低位ルーンをあえて前文からすべてわかりやすく唱えてくれたということで、エイル君の履行能力が回復しているんだな、とわかりました。気位の高いエイル君が他人にルーン詠唱を失敗する所を見られたいとは思わないでしょう。つまり彼は短時間でルーンの履行能力が回復したことを私達に派手に演出して見せたかったと言うことです」
「でも、なぜ履行能力が回復していると言うのがエイルにはわかったんですか?」
まさに狐につままれたといった風情でティアナがリリアに尋ねた。
「それは……」
アプリリアージェはティアナにではなくエイル……つまりエルデに向かって微笑んで見せた。
「炎のルーンを唱える前に、既に何かのルーンを唱え続けてて、それが発動したのを確認してたんですよね」
エルデは苦笑いを浮かべながら両手を少し上げて肩を竦めて見せた。
「さすがにシルフィードが誇る名将ユグセル中将やな。全部お見通しっていうわけや」
アプリリアージェはにっこり笑った。
「たぶんさっき言ったように確認の為に私に保護のルーンをかけてくれたのでしょう。もしくは炎の攻撃ルーンを無効にするような中位・高位ルーンでしょうね。その後わかりやすいように攻撃ルーンを全文唱えたのは、まあ言ってみればティアナがキャンセラだと言うことを知らせていなかった事に対する抗議の意志みたいなものですね。こういう事態を想定していなかったわけではないのですが、私の不注意なのは確かですし、エイル君の怒りはごもっともです。ただ」
「ただ?」
オウム返しに尋ねたのはエルデだった。
「やることがちょっぴり子供っぽいですねえ」
「ぐっ!」
「まあまあ」
エイルの頭の中に呪詛の言葉を並べるエルデの怒りを知らぬまま、殆ど一瞬の間にそれらをすべて把握していたというアプリリアージェにティアナは改めて畏敬の念を抱いた。一兵士としての戦う能力とは別に、戦いを冷静に俯瞰して現状を認識する能力、つまりは部隊を指揮統率する才がティアナの知る軍の上層部の人間達と比べても、アプリリアージェの方が一枚どころか数枚上だと思った。
それと同時に、賢者……いやエイルの底知れないルーナーとしての能力、さらにはやや子供っぽい側面も見えなくはないが、アプリリアージェと対等に渡り合おうとするとっさの判断と周到な計算力。それを実行できる大胆さにも舌を巻いていた。
(この二人はとんでもない)
ティアナは自身のキャンセラとしての能力にかなりの自負を持っていた。ルーナーの履行能力を一定時間無効にできるという天性の力は、ミドオーバ大元帥をして「類い希な強さ」と言わしめるほどだったのだ。
ティアナのようなキャンセラは、一般に相手のルーナーとの相対的な能力差で履行能力喪失時間は決まるが、実験ではバード長であるミドオーバ大元帥を相手に安定して四時間程度の喪失時間を与えることができており、高位ルーンを複数使える「上級ルーナー」とシルフィードで称される「バード」相手では場合によっては数日以上その力を剥奪できていた事もあったのだ。
かなり特殊なルーナーだと言われていたエイルの能力剥奪時間については、密かに興味を持っていたのだが、ティアナにとってはやや残酷とも言える結果になった。とはいえ、ティアナはがっかりするよりもまず自らの驕りを恥じていた。
一方エルデの方はティアナのそんな敗北感とは全く違う意識を持っていた。
【それにしても二分近くも履行能力が奪われるとは、戦慄の能力やな】
『シルフィードの魔法使い……じゃなかったルーナーの頂点って奴が二百四十分なんだろ? お前は百二十倍もすごいんじゃないか?』
【フン。二分は長すぎやろ? 考えて見いや。一気に事が進む戦場で二分は致命的や】
『そうなのか?』
【たぶん、リリア姉さんも俺と同じ厳しい意見やと思う。ホンマにくそったれや】
『とにかくティアナにはあんまり近づかない方がいいってことだな、今後は』
【やな。でも、一連の話で一つ気になることがあるんやけど】
『ん?』
【シルフィードのバード長、ミドオーバ大元帥と言えばファランドールのルーナーでその名を知らん人間はいてへん程の大ルーナーや】
『らしいな』
【そんなオッサンが四時間? いくら俺が世紀の天才ルーナーやから言うて二分代で中和できるものを四時間もかかるっちゅうのはさすがに不自然やと思わへんか?】
『それだけお前がすご過ぎるんじゃないのか?』
【俺は確かにかなりすごいな】
「ふん。それが言いたかったのかよ?」
【いや、それは事実やから。でもな、身内を盲目的に買いかぶると痛い目に遭うで】
『じゃあ、どういう事なんだ?』
【今考えられる答えは二つやな。一つはティアナが姉さんと口裏を併せて俺らを騙しているのか】
『なんでそんなことを?』
【まあ、可能性が無いことはないんやけど、でもどっちかというともう一つの答えの方が正解かな】
『と言うと?』
【もちろん、シルフィードのバードの長、サミュエル・ミドオーバが身内のティアナを騙してるんや】
『なぜ? 味方だろ?』
【何遍も言わさんといて】
『ファランドールでは誰も信じるな、か?』
【わかってたらええねん】
『でも、その大元帥って近衛軍の最高司令なんだろ? 近衛軍って要するに宮廷警護だよな?』
【そんなん言われても俺は知らんがな。とにかくシルフィードのバード長ってのは自分の弟子にも正体を見せへん用心深い男やいうことがわかったってことや。この先、もしそいつと出会うことがあっても信用はでけへんで】
『了解』
【でも、リリア姉さんはそこに疑問を持たへんのかな】
『え?』
【なんでもない】
エルデの思惑に反してアプリリアージェはキャンセラの件にはそれ以上触れなかった。ティアナをそれ以上凹ます必要もないと判断したのだろう。だが、彼女にとっては実質的な収穫があった。今後万が一事故でティアナとエイルが接触することがあったとしても、四分後にはエイルのルーンの力は回復しているという実験結果を労せずして得ることが出来たのだ。周りの人間が奮戦して四分だけ時間を稼げば、この類い希と認めざるを得ないルーナーの力は回復するという事がわかったのだから。
ただ、ある疑念が生じなかったわけではない。それはもちろん、エルデと同じものであった。
だが、それも今の彼女にとっては積極的に先送りにすべき問題だと言えた。
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