第二十七話 ウーモス 2/3

 その催しを行うことになったのは昨日の事だった。

「ウーモスと言えば温泉です。久しぶりですねえ」

「温泉以前に、お風呂に入ること自体が一週間ぶりですわ」

 ウーモス入りを前にはしゃぐアトラック・スリーズにエルネスティーネが微妙な皮肉を返した。王女であるエルネスティーネにとって、一週間も風呂に入らず、さりとて充分な着替えなどあるはずもなく、肌着を取り替えることすら出来ずに何日も過ごすなどと言うことは初めての経験であった。ただ、そのこと自体に不満を漏らすようなエルネスティーネではなかった。もとより彼女にとってそんなことは覚悟の上……と言うよりもむしろ取るに足らない些末な事と言えた。

 エルネスティーネにしてみれば、軽口を叩くのが好きなアトラックを相手に軽く言葉の運動をしてみせたようなものなのだが、彼女のその言葉を耳にしてしまったティアナ・ミュンヒハウゼンににとってはこたえる一言であった。

 一国の……それもファランドールでも大国であるシルフィードの王女であるエルネスティーネがなぜそんなことまで我慢せねばならないのかという思いを消すことができずにいたからだ。

 エッダの王宮では「変わり身」であるエルネスティーネそっくりの少女、イース・バックハウスが王女として今も暮らしている。混乱を防ぐ為、対外的な意味、いろいろ理由はあるが、そもそもエレメンタルが動くというようなことが知れては一大事だからだ。

「変わり身」であるエルネスティーネ王女は、普通に人々の前に姿を露出して周りに不信感を抱かせないように振る舞っているだろう。その「変わり身」である王女が王宮でぬくぬくと暮らしていて、本物のエルネスティーネは質素な旅装束を身にまとい、何日も風呂にも入れぬような不自由で過酷な野宿を強いられている事がティアナには理不尽に思うことが多かった。もちろん、「変わり身」になっている少女がぬくぬくと暮らしているなどとは言葉の綾であってティアナ自身が本気で思っているわけではない。「変わり身」であるイースには他人には告げようのないエルネスティーネとはまた別の過酷な試練があることは想像に難くないのだが、心の中にある贔屓という利己主義ばかりはティアナにもどうしようもない。それをわかっているからこそティアナは自己嫌悪をも受け入れねばならず、どちらにしろいい気分ではいられなかったのだ。


 そんなティアナの事を一番理解していたのもまたエルネスティーネだった。

 彼女は自分を思い気遣ってくれるティアナの気分をもっと軽くしようといろいろと考えていた。だからであろう。旅に出てからのエルネスティーネは、ティアナに長い時間沈黙時間を与えなかった。

「ティアナも温泉につかって、その眉間の皺を伸ばさなくちゃね」

 自分の一言に反応したに違いないティアナに、エルネスティーネはそうやって明るく声をかけた。

「み、眉間に皺などありません」

「ええー?」

 エルネスティーネに呼応して、いたずらっぽくルネ・ルーが下からティアナの顔をのぞき込んだ。それにびっくりしたティアナは思わず歩を止めた。

「難しい顔したらできる皺がここに三本あルでー!」

 そう言うとわざとしかめっ面をして眉間に皺を作って指さして見せた。

「うん、ルネ。うまいぞ。ティアナにそっくりだ。顔はともかく眉間の皺が」

 こういう場合、よせばいいのに必ずアトラックが一枚噛んでくる事になっていた。本来陽気で、こういう軽い会話が大好きなアトラックにしてみれば新しくはじまったこの旅の一行はすばらしい仲間に巡り会えたようなものであった。

 なにしろ、アトラックにとってはル=キリアの四人だけの旅だと寂しいことこの上ない。会話というものが存在しないテンリーゼン・クラルヴァインに、寡黙でアトラックの軽口をことごとく無視するファルケンハイン・レインという手強い取り合わせなのである。唯一、話し相手になりそうなのはアプリリアージェくらいだが、アトラックはさすがに司令であるアプリリアージェには畏怖を持っていたので、少なくとも四六時中軽口を叩き合う相手にはなり得なかった。

 従って、賑やかな一行との合流はアトラック持ち前の陽気さを炸裂させた訳である。


「なんだと!」

「おー、こわ」

 ティアナは誰が見ても怒っているとしか思えない程目をつり上げてアトラックの方を睨んだ。

「ティアナ!」

 エルネスティーネがそんなティアナに再び声をかけた。

「ダメですよ。ほら、言うではありませんか。『笑う顔には皺はなし』って」

「は?」

 ティアナは最近どんどん暴走しているエルネスティーネの諺の本来の形が、もうあまりわからなくなってきていた。


「ククク……」

 そのやりとりを見て、最後尾を歩いていた呪医、ハロウィン・リューヴアークが堪えかねたように体を小さく震わせて声を漏らした。

「そこ、どさくさに紛れて何を笑っている!」


『やれやれ。またやってる』

【飽きもせんとようやるわ。まあお互いの親睦の為にはええんちゃうかな】

『親睦? あれが?』

【仲がええほど喧嘩するっちゅうやろ?】

『うーん、そうかなあ……』

【まあ、どちらにせよネスティが創作諺の天才なんは確かや。元ネタ当て勝負とかやると盛り上がるかもしれんな】

『本人が司会をしない事が前提だな、それ』

【確かに。混沌とした試合になりそうやな】


 背後で繰り広げられるティアナとアトラック、そしてエルネスティーネとルネやハロウィンまで加えたいつものやりとりを聞きながら、エイルは心の中でため息をついた。

 そのままチラリと横合いを見ると、何を考えているのやらわからないアプリリアージェがいつもの笑顔を浮かべて淡々と歩いていた。もちろんアプリリアージェがこの手のじゃれ合いを止める事は一切無い。どうかすると彼女はもともとそんな会話すら聞こえていないのではないかと思えることがあった。

 姿勢のいい姿で前を向いて歩くアプリリアージェの瞳には、朝靄が残った森の上に広がる青い空がどこまでも広がっている。それはまるで彼女には目的地などどこにもないようなそんな茫洋とした寂しささえ感じさせる表情だった。

 アプリリアージェはいつも笑っているにも関わらず。


「そうだわ」

 脈絡なくアプリリアージェはそう言うと立ち止まった。

 アプリリアージェの顔を見つめていたエイルはもちろんのこと、一行はこの唐突な隊長の行動に驚いて歩を止めた。

「何ですか?」

 アトラックが興味津々と言った表情でアプリリアージェに声をかけた。

「ちょうどいい機会ですから、一度みんなで手合わせをしましょう」

 アプリリアージェはこともなげにそう言った。

「え?」

「手合わせ?」

「みんなって?」

 一行は顔を見合わせながら、口々にアプリリアージェに質問を浴びせた。

「お互いに初めて会う人間の戦闘能力を把握しておくのはとても有意義な事ですし、なにより部隊を預かる私自身が助かります。私はティアナの剣士としての腕前を知りませんし、できれば仲間であるエイル君の剣の実力も知っておきたいところです」

 そう言うと横にいるエイルには視線を移さずに、後ろにいたティアナの方へ振り返った。

「あなたも『噂』の特殊部隊の人間の実力がどの程度のものなのかを知っておきたいと思っているのではないですか?」


【おい、変な方向に話が進んでるで。これやったら諺当て大会の方が平和やな】

『ティアナさんはダシで、オレの剣の実力が見たいっていうのが本当のところか?』

【まあ、どう考えてもそうやろな。このオバはん、好奇心を抑えきれへん性格みたいやし。まあ、無視してほっといたらええわ】

『いや』

【ん?まさかお前さん】

『いや、興味があるんだ。リリア姉さんやリーゼの実力を自分自身の剣で立ち会って知っておきたい。まあ、好奇心と言い換えてもいいけどな』

【ええんか?優劣ついてまうで】

『忘れたのか?オレはフォウのサムライだぜ?強い相手と戦うのは望むところさ』

【あちゃ。悪い虫が】

『それに、戦術を考える立場ならやはり当然戦力把握はしておきたいというのは嘘じゃないだろう?味方が少しでも有利になる材料になるなら協力は惜しまないさ。もっとも』

【もっとも?】

『オレが実力を全開できる相手ならいいんだけど』

【ふーん、自信満々やな。ま、つきあい長いし、お前さんが弱いとは思ってへんけどな】

『心配するな』

【まあ、剣の腕前くらいならええか。リリア姉さんも「好奇心が猫をも殺す」っちゅうことわざを思い出してくれたらええねんけど】

『どういう意味だ?』

【あんまりこっちを詮索せんほうがええで、って事や】

『いや、どう考えても詮索したいだろ、普通』

【はいはい】


 エイルと違い、ティアナはアプリリアージェの突然の申し出に軽くうろたえていた。

 もちろん、アプリリアージェが言うように、自分の実力がこの特殊部隊と比べていったいどうなのかという興味はある。いや、自分自身の強さに少なからず自信があるからこそ、様々な噂で飾られたル=キリアと剣を交える事は願ってもない機会だった。

 だが、ここへ来てそれを突然言い出したアプリリアージェの真意がわからなかった。一週間ほど寝食を共にしたから気心が知れてきてこういう話を切り出しやすいと思ったのか……いや、アプリリアージェはそういう性格の提督ではないと聞いている。

 アプリリアージェの行動には目的遂行意識の強さはあっても、生来の腹黒さや悪意などは一切無い人物だという事は、短いつきあいの中でもティアナは既に理解していた。

 だが……。

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