第二十七話 ウーモス 1/3
ウーモスはアロゲリク山脈の最高峰、休火山であるアロゲリク山の北西の麓にあり、二つの河が合流する砂州地帯に発生した町で、サラマンダ北部の山間地帯ではもっとも人口が多い都市である。
良質の温泉が湧く事が知られており、その効用により療養地としても賑わっていた。
山間の谷あいに位置するランダールよりも地形的に開かれ、かつ平地面積が多いために各方面から人々が集い、大きな集落を形成していった。もっとも城塞の町であるランダールと違って、ウーモスは常に動乱に影響される場所でもあった。
サラマンダの北西では数少ない軍隊の駐屯地が在り、陸路からサラマンダ中央部に向かう場合の玄関口と言えた。
ウンディーネからの滞在客はウーモスの町の人口よりも多いとさえ言われている。その多くは観光客で、勿論ウーモスの温泉が目当てである。つまりウーモスとはウンディーネからの交通の便が比較的良い湯治場なのである。
ウンディーネにはあまり温泉場が存在しないこともあり、ウーモスは自国サラマンダよりもウンディーネに人気のある町でもあった。
当時から見て約八百年程前に最後の噴火を記録し、今もなお休火山と認定されているとはいえ、アロゲリクは火山である。ウーモスはその恵みを大いに受け、源泉は無数と言われるほど多く、その湯量も豊富、しかも効能が違う源泉が多々あり、訪れる客にとっては楽しみが多い温泉地と言えた。
二人のエレメンタルを擁する旅の一行は夜のうちにそのウーモスに入っていた。
その翌朝、それも辺りがようやく明るくなっただけで、まだ夜が明ける前の事である。
明るくはなったものの、牛乳色の朝靄で視界がまだ確保できない時間に、ウーモスの温泉街の本通りから少し歩いたところにある人の手入れが行き届いていない林の中ほどで、黒い髪の少年が一本の楡の大木の根元に静かに正座していた。
林には道と呼べるものがなかった。つまりはおよそ人が訪れることのない場所である。もちろんその少年……エイル・エイミイにはこの土地の知識があるわけではない。おそらく人目につきにくい適当な場所を探してそこにたどり着いたのであろう。
その時その場所に居たのは、エイルだけではなかった。地面に座るエイルの遙か上方……その黒髪の少年を見下ろせる枝に同じような黒い髪をしたダーク・アルヴの少女が腰をかけていた。
それは風のフェアリー、アプリリアージェ・ユグセルの姿だった。ただでさえ身が軽いダーク・アルヴである。加えて風のフェアリーでもある彼女にとって、木の枝に上ることなどは何でもないことだった。
アプリリアージェは宿を出るエイルに気づくと、敢えて気配を消さずに後を追ったのだ。エイルはアプリリアージェの存在に気がついているだろうと思われた。だがアプリリアージェはそれでよかった。隠れて覗く事はアプリリアージェの本意ではない。ただ、見たかっただけなのだ。
彼女はいったい何を見たかったのか?
それはエイルの剣技の練習だった。
旅に出てから毎朝、エイルは早朝一人で一行の野営地から離れると、しばらくの間帰ってこなかった。当初はアプリリアージェも用を足しに行ったのであろう程度に考えていたのだが、その事について水を向けると意外にも本人があっさりと「剣の稽古」と答えたのだ。
「日課のようなもんだよ。これをやらないと一日がはじまった気がしなくて」
「それは是非一度見学させてもらいたいですね」
「別に見て面白いものじゃないよ。まあ、見たいならお好きに。ただし」
「ただし?」
「邪魔はしないで。あとあまり近づくと危ないから。それだけは忠告しておく」
「私でも?」
「リリアさんの体にあれ以上傷を付けたくない」
「エイル君が優しい男の子だということは、よくわかりました」
「え?」
「忠告には感謝します、という意味です」
「ああ、そう」
そんなやりとりがあった上での今朝であった。
霧の為視界は限られていたが、その有視界ぎりぎりの高さにある太めの枝の根本に腰を下ろして、アプリリアージェはエイルの姿をじっと見つめていた。
エイルは背筋を伸ばして静かに座っていた。
その膝の前、つまり地面の上には精杖が置かれていた。
だが、エイルはその精杖を見ているわけではない。目は閉じられているようだった。
そして……。
そして、先ほどからずっとそのままだった。
(これが剣技の練習だというの?)
剣の稽古と言うくらいである。大きな気合いと共に様々な型を繰り返し繰り返し反芻して自ら剣の型の完成と調整を行う一般的なものを想像していたものだから、エイルのその姿はアプリリアージェにとっては奇妙なものだったのだ。
もしかしたら、自分が見ている為に普段の練習を見せたくないのかもしれない、という思いが浮かんできた。だが、エイルは見てもかまわないと言ったはずで、アプリリアージェとしてはその言葉に嘘はないと感じていた。だからこそ安心して自分の気配を気付かせて後を追ったのだ。
十五分ほどそのままの状態が続いたあたりで、アプリリアージェはあきらめの気持ちに支配されてきた。
――やはり手の内は見せたくないのかもしれない。
そう思って小さくため息をついた時だった。エイルに変化があった。
今まで微動だにしなかったエイルがそっと目の前の精杖に手を伸ばした。それを見たアプリリアージェは思わず緊張で体を硬くした。
だが、精杖を手に取ったエイルの動作はあまりに何の変哲もないものだった。エイルは精杖を右手に持ち正座を崩して無造作に立ち上がると、今度はゆっくりと両手でその精杖を大上段に構え直した。そして彼はそのまま溜めも何もなく右上から左下に向かって袈裟懸けに空を切って見せた。
アプリリアージェの目には剣速が特別に速くも、特殊な気合いを入れたようにも見えなかった。無造作に振り上げた精杖を、ただなんとなく空振りしただけにしか見えない動作だったのだ。
樹上のアプリリアージェがエイルの動作に困惑しているのを知ってか知らずか、当のエイルは袈裟懸けに切り結んだその姿勢のまましばらくじっとして動かないでいた。
一分ほどその姿勢を保持したあと、ようやくエイルは構えを解いた。精杖を右手にもち、誰もいない林に向かって一礼した。
一連のエイルの仕草をいったいどう判断していいものか、アプリリアージェにはわからなかった。
見られていると思って訳のわからない型をしてからかって見せたのか、それとも特殊な剣技を持つエイル独特の型なのか。
どちらにしろアプリリアージェは見たままを受け入れる事にした。
だが、彼女の答えはエイルが立ち去ったその場所にあった。
エイルが去った後、地上に下りたったアプリリアージェは、地面を見つめて息を呑んだ。
「なんてことなの」
思わず声が口を突いて出た。
上から眺めているだけでは見えなかったものがそこにはあった。
答えは一枚の枯れ葉だった。
エイルはあの動作で楡の木から落ちてくる枯れ葉を切っていたのだ。枯れ葉はよく研いだ繊細な包丁……いや、剃刀のようなもので切断されたかのように、中心線でまっぷたつに分かれていた。それを見たアプリリアージェの背中にゾクッとした悪寒が走った。
そう。エイルはその葉を精杖……つまり木の棒を使ってその状態にしたということなのだ。しかもただ無造作に振り下ろしただけで。
決して剣の速さで切ったものではない。しかも……おそらく回転しながら落ちてくる枯れ葉の中心に走る葉脈を狙ってである。
「本当に不思議な子」
またもや思ったことが言葉になって出た。
アプリリアージェは足下にあるその二つの枯れ葉を拾い上げると、エイルが立ち去った方角を見やった。
アプリリアージェがその日に限ってエイルの稽古を見ることにしたのにはそれなりの訳がある。それはその日の午後、一行にとって重要な意味を持つある催しが行われる事になっていたからだ。それに先立ち、もし許されるのならばアプリリアージェにとって未知数といえるエイルの剣の実力の一部でも把握できればと考えたのである。
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