第二十五話 蒼穹の台(そうきゅうのうてな)2/2

「僕は、君の言うその『おそれを知らぬ偽賢者』の現名に少しばかり興味が湧いたので顔を見に行ってくるだけさ。君を責めているわけでもないし、君の言っていることを信じていないわけでもない。ただ、自分で確かめたいという欲求があるだけだよ」

「エ、エイミイという族名は一体どういう?」

 ラウはこれ以上詮索をしてはならないと感じながらも、自らの疑問を口にせずにはいられなかった。

「そうだね」

 叱責をされるものと思っていたラウはしかし、穏やかな【蒼穹の台】の声にやや違和感を覚えた。


「古い古い知り合いにその現名を持っている者がいた。それだけさ」

「古い、お知り合いですか」

「うん。とても古い知り合いだ。とても、ね」

【蒼穹の台】はそう言うともう一度ラウの頭を優しくポンと叩いた。そしてそのまま身を翻して長椅子の横で中に浮いている大理石で作られたように見える青白い精杖を手にした。

 話はそれで終わりだった。

 三聖【蒼穹の台】は精杖を手にラウの方に向かって、しかしラウの事は見向きもせずに歩き出した。

 ラウは近づく小柄な師の為に道を空け、傍らで片膝をついて頭を深く下げた。

 青白い精杖を手にしたアルヴィンの少年はラウの前にくると立ち止まり、顔ではなく声だけをラウに向けた。

「君は次の予定地に向かいなさい。賢者としての本来の仕事と僕の頼み事をうまくやっておくれ」

「は。我が師、【蒼穹の台】の仰せの通りに」

「それから、あまり無茶はいけないよ。君は大切な僕の弟子であると同時に【真赭の頤】から貰い受けた我が子でもあるんだからね」

「身に余るお言葉」

「それから、【群青の矛】」

 アルヴィンはラウの左側に向かって声をかけた。そこにはラウとは違いかなり離れて先ほどから片膝をついてかしこまっている若い女、いやまだ少女と言っていいアルヴがいた。

「はっ」

「この先も【二藍の旋律】の事を頼むよ。今回は本当にご苦労だった」

「御意。もとより【二藍の旋律】さまは我が主でございます故」

「うん、そうだね。それでいい」

【蒼穹の台】は小さくうなずくと、ラウと群青の矛の二人を残してゆっくりと歩き去った。そして数秒後にはラウの五感からそのアルヴィンの少年の気配は綺麗さっぱり消え去っていた。

 最高位の賢者ならではの空間跳躍術なのであろう。三聖と呼ばれる賢者にはどの賢者も太刀打ちできない力があると言うが、空間跳躍術はその中でも特に有名な術式の一つだった。


 ラウにとって師匠であり義父でもある【蒼穹の台】とはしばらくぶりの謁見だった。

【蒼穹の台】……後世の歴史家によってイオス・オシュティーフェという現名が確認されているこの人物もまた謎だらけと言っていい。

 現代において彼の姿形の片鱗を知る術は王立博物館のマーリン正教会館に所蔵されているミリア・ペトルウシュカの手による連作「三聖」の一つである「空の王」と題された一枚の絵だけであろう。

 そこには紺色の長いローブのような服を纏った短い金色の髪をしたアルヴィンの少年が青白い石で出来た精杖を手にして雲間で虚空を仰ぐ斜め後ろ姿が描かれている。空を仰ぐ表情はすなわち、見る者にはわからない。

 その斜め下から仰ぎ見るような大胆な構図が当時としては画期的なものなのは間違いないが、絵の寸法が小さく、あまり注目はされなかった。


 我々にとって心細いことはそもそも「三聖」という連作がミリアの設定したものではなく、後生の美術研究家の某が三枚の絵を指して「連作 三聖」と分類しただけであり、ミリアのその絵が必ずしもイオス・オシュティーフェであるとは限らないことである。彼がアルヴィンであったという根拠は口伝とミリアの絵だけであって、姿形はもちろんのこと、本当の種族すらもはや誰にもわからない。

 ミリアの件の絵の裏側にはミリア自筆の画題はなく、イオスの絵であるということが口頭で伝えられているだけなのである。

 もとより気まぐれな画家であるミリアの場合、画題は書いたり書かなかったり、自らの署名すら入っていないものの方が多い。ただ、画題のない絵には必ず口伝で題名がついているのが常で、そこから「空の王」がこの絵の題名だとする説自体には問題はない。問題は「空の王」が【蒼穹の台】を指し示すものなのかどうかであるが、時代背景を考えても空の王と呼ばれる人物は【蒼穹の台】以外にありえないとする説に根拠のある反論を示すものは現れていないのもまた事実なのである。

 我々は素直に「空の王」と題されたその物悲しさを感じる後ろ姿で虚空に顔を向ける金髪のアルヴィンの少年こそ【蒼穹の台】だと想像しておこう。


 その空の王とミリアに言わしめた三聖の一人【蒼穹の台】ことイオス・オシュティーフェが【二藍の旋律】ラウ・ラ=レイの師であったことは正教会の記録により間違いないようである。だがマーリン正教会における、いわゆる標準的な師弟の関係というよりはむしろオシュティーフェ派の賢者の一人にラウ・ラ=レイの名が上がっているという関係と考えた方がよさそうであった。

 なぜなら修業時代のラウの師は【真赭の頤】であることもまた信頼できる文献に既述されており、多くの口伝でもそう伝えられている。つまりラウは賢者になる際に便宜上の後見として師弟関係を結び、賢者としての名を頂いた後もイオスにそのまま付き、いわゆる大賢者付きとして彼にごく近いところで行動をしていたと見るべきであろう。もちろん原因は本来の師である【真赭の頤】事件による彼の権威の失墜にあることは間違いがない。


 イオスの弟子であるラウはしかし、その日の師の態度には違和感を覚えていた。

 本来彼女の新しい師は市井の一個人などに関心を寄せるような人物ではなかった。たとえそれが賢者を名乗るなどという国際法上でさえ死罪、ましてやマーリン正教会にとってきわめて許し難い人物であったとしても、である。

 普段であればそういう些末な事象には眉一つ動かさず、ラウにはおよそ真意がわからない指令の遂行状況だけが頭にあるすべてのような態度を示すだけなのだ。

 だが今回は興味を示すどころか「エイミイ」という名を告げられるとその普段まず変わることのない端正ながら無表情な顔に驚愕の表情まで浮かべ、あげくに「会う」とまで言ってのけたのだ。


 ラウは今し方の不思議な会見を反芻してみた。

 そう、賢者を名乗る人物が居たことについては無表情なやりとりだったが、ラウがエイル・エイミイという現名を口にすると顔色が変わったのだ。

 問題は名前だった。

 エイルは【二藍の旋律】のこともよく知っていた。彼女のかつての師である【真赭の頤】の事も知っているという。さらにはその現名、それもその族名が三聖である【蒼穹の台】をも起立させた。

(一体何者なのだ、エイル・エイミイとは?)


 ラウはこのまま素直に手を引くつもりにはなれなかった。

「【群青の矛】いや、ファーン」

 彼女は立ち上がると控えているアルヴの少女にそう声をかけた。

「はい」

 控えたままの姿勢でファーンと呼ばれた末席賢者は応えた。

「師に叱られたから言うのではないが、今回はお前の助言に従うべきだった。いらぬ世話をかけてしまったな」

「いえ。【二藍の旋律】」

「師はああおっしゃったが、私はエイル・エイミイという未知の賢者をもう少し追ってみたいと思う。どうする? お前は三聖にその事を報告するか?」

「私はもう【蒼穹の台】さまの部下ではありません、【二藍の旋律】」

「戯れ言を」

「私は末席ではございますが賢者を名乗るもの。我が「賢者の徴」にかけて誓いに偽りはございません」

 ラウはファーンの回答に小さなため息をつくと帽子を被った。

「フン。では行くとしよう」

「はい。どちらに?」

「エイル・エイミイの向かう場所だ。もちろん師の指令もこなす」

「心得ました。【二藍の旋律】」

「ファーン」

「はい」

「現世で使う名は現名でいい。私はお前のことをファーンと呼ぶ。だからお前も市井にあっては賢者の名を口にすることなく私のことは現名で呼べ」

「心得ました。ラウさま」

「その『さま』もこっちの肩が凝るな」


 ラウは腕を組んで少し考えた。

 それを見て、ファーンが遠慮がちに提案した。

「実はかねてより考えていた呼び方があるのですが」

「何? 言ってみなさい」

「はい。『ラウっち』はいかがでしょう?」

 ラウは固まった。

「冗談……やな?」

「いえ、冗談ではありません。『ラウっち』」

 ラウは肩を落とした。彼女としてもファーンが冗談を言うような相手ではないのはわかっていたつもりだったが、冗談であってくれた方がこの場合はまだ救いがあるように思った。ファーンの事を自分と同じ常識を共有できる相手だと勝手に思い込んでいた認識の甘さを、ラウは恥じることになった。そして、彼女はその時初めて自分には相手を見くびる傾向があるのではないかという思いに至った。 

 エイル・エイミイの件もそうだった。相手が偽物であると決めつけた時点で賢者の自分が圧倒的に優位にあると思い込んでいたのだ。


「わかった。やはり私が決めよう。これからは『ラウさん』と呼んでくれ」

「わかりました。ラウさん」

 ファーンのその答えを聞くと、ラウはほっとしたように小さなため息を一つついた。そして忠実な部下であるファーンをあえて顧みることもせずに出口に向かった。


 ラウの居た場所。そこは古びた教会だった

「行くぞ。ファーン」

「はい、ラウさん」

 いつもより明らかにおだやかな調子の声で促されたファーンは、つられるように思わず明るい口調でそう返事をした。

 末席賢者、【群青の矛】ことファーン・カンフリーエは音もなくすっと立ち上がると、すぐに大股で歩くラウの背中を追った。

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