第二十四話 喰らいの呪法 5/6
エルデがそこまで言ったところで、おもむろにシェリルが立ち上がった。
「お茶を入れましょう。話は長くなりそうですし、少し冷えてきました。熱いお茶で暖まりましょう」
「まあ、嬉しい」
シェリルの言葉に即座に答えたのはアプリリアージェだった。彼女のお茶好きはすでに旅の一行全員に認知されていた。彼女は特にシェリルの入れるサラマンダ風のお茶が大のお気に入りで、ル=キリアのお茶番であるアトラックにしっかりと覚えるように命じていたくらいである。
「リリアお嬢様が自分で覚えればいいじゃないですか?」
「あら、アトルは知らないんですか? お茶は人に入れてもらった方が自分でいれるより何倍も美味しいんですよ」
「そんなわけないでしょ?」
「そんなわけありますよ。ずっと昔からファルンガではそう決まってるんです」
アトラックが不満そうに抗議したが、アプリリアージェは平然とそう答えて見せた。そんな決まり事をアトラックが知るよしもなかったが、もちろんそれ以上逆らうことはしなかった。もとより彼に断るつもりなどは全くなく、むしろうまいお茶の時だけお代わりをするテンリーゼンの為に請うてでも覚えるつもりだったのだ。
「絶対俺のお茶で副司令に五杯はおかわりさせてやりますよ」
後日、アトラックはファルケンハインにそう豪語したが、ファルケンハインは
「世界が亡びる前にその日が来るといいがな」
そう言ってアトラックのやる気に水を差した。
だが、今は話を元に戻そう。
「ルーナーの修行が想像を絶するものだとは聞いたことがある。だがそれで、卒業試験と宝鍵とにどういう関係が?」
一同の中で最初に口を開いたのはハロウィンだった。
彼はそういうと、興奮しているエルネスティーネの肩を後ろから優しく抱いて、ゆっくりと座らせた。
エルネスティーネはハッとしてうつむくと、素直にもとの場所に座り込んだ。エルデはそれを見て少し間を置くと小さくため息をつき、次にはっきりした口調でその場にいる全員に聞こえるように告げた。
「こうなったらついでやし、俺の試験課題を見といてもらおか」
『いいのか?』
【ええやろ、もう。そのうちお前さんはあのおっちゃんらとは一緒に風呂に入らなアカン羽目になるんやしな。つーか、よう考えてみ? 俺ら看病されてたんやで?】
『あ』
【たぶん、あのアルヴの呪医には間違いなく見られてるやろ。それと着替えとかの世話をしてくれてたシェリルも】
『そうだな。まあお前がいいならオレは何も言わないさ』
エルデはアプリリアージェの視線を探した。それはすぐに見つかり、視線が合うと目を伏せた。
アプリリアージェはエルデのその様子を見て、怪訝な表情をしたが、何も言わなかった。
エルデは焚き火を背にすると、着ていた服をゆっくりと脱ぎ、上半身、つまり背中を一同に晒した。
たき火の炎に照らされ、赤く揺れるようなエルデの背中をみて、エルネスティーネが小さく悲鳴を上げた。同時にファルケンハインとアトラックも思わずうなった。アプリリアージェとティアナは息を呑み、声を失っていた。
そこには見たことのない不規則な黒い縞が渦のように這い回っていた。絵や入れ墨ではない。文字通り「這い回って」いたのだ。模様がエルデの背中を動いていた。その模様は爛れ、一部は盛り上がり、炎の光の中で不気味に揺れていた。まるでいくつにも分かれた蛇の舌が皮膚の上をなめているかのようで、見るもおぞましい光景だった。それは誰が見てもとてつもなく禍々しいものだと一瞬で理解し、恐怖し、そして目をそらしたくなるような模様と言えた。
その模様を見て言葉を失ったアプリリアージェは、さっきのエルデの態度の意味を悟った。
【いやあ、同じ事やってもリリア姉さんのあの色っぽい背中と比べると、野郎の背中っちゅうのは全く価値が違う感じがするなぁ。まあ、自分では見えへんのやけど】
『悪かったな。色気のない背中で』
【スネなや。背中勝負では姉さんの価値は俺も認めるところやし】
『ふん』
「それは……『喰らい』の呪法だね」
ハロウィンが静かにつぶやいた。
エルデはハロウィンを見て苦笑しつつも、吐き出すように言った。
「さすがは謎の先生やな。師匠は俺にこの呪法をかけてこう言うたんや。『我が庵に解法あり。それを持参せよ。期限は三年』そしてこう続けた。『三年が経過すればお前の体のすべての感覚は消えてなくなる。そのまま腐って死にたくなければ、動ける間に這ってでも我が面前にたどり着け』ってな」
「なんてことを!」
エルデの言葉が終わらないうちに、エルネスティーネが再び立ち上がった。その声にエルデが振り向くと、そこには体を小刻みに震わせながら眉をつり上げつつも目に涙を一杯溜めるアルヴィンの少女の、緑の視線があった。
エルデはその涙を見て顔を曇らせた。それと同時にエルネスティーネの目から涙が溢れ、頬を伝い、顎の先からしずくになって地に落ちていった。
エルネスティーネは今度は声を出し、体を震わせて泣いていた。
「師匠が弟子にこんな恐ろしいことをするのですか? なぜです?」
それはエルデに対して発せられた問いだったのだろうか。それとも他の誰かに投げかけた問いだったのだろうか。
少なくともエルデはその問いに対する答えは用意できなかった。エルデにとってはもうそれは日常的につきあっている普段着のような存在になりつつあったのだ。
『これって、王女様が俺たちの為に泣いてくれてるって事だよな』
【フン。超お嬢様やからな。こんな恐ろしい物なんか見たことがないんやろ】
『オレ、フォウでも自分のために泣いてくれた人なんて居なかった気がする』
【自慢やないけど俺もないわ。つか、このお姫様、なんか予想外に熱血やな。もともと王宮に閉じこもっているような性格やなかったんとちゃうかな】
『うん。そうかもしれないな』
【ほっとくと手が付けられへんお姉ちゃんになるような、微妙にいやな予感がする】
『おいおい、なに失礼な事言ってんだよ』
【正直な感想なんやけど】
『まったく』
「師匠は弟子の命をなんだと思っていらっしゃるのです?!」
エルネスティーネは重ねて問うた。
【これくらいの事、何とも思ってへんやろな、普通の賢者なら】
『……』
エルデをまっすぐに見つめるエルネスティーネの顔はもうくしゃくしゃだった。横にいたシェリルもつられて涙ぐんでいた。
「先生!」
エルネスティーネはエルデから今度はハロウィンに視線を移し、涙声で訴えた。
「先生のお力なら、あの程度の呪法を解くのは簡単なのでしょう?」
ルネが何かを答えようとしたのを、ハロウィンが優しく頭に手を置いて制した。
「ネスティ」
「何ですか?先生」
「世の中にはこういう理不尽な事が、それこそそこいら中に溢れているんだよ」
そう言うハロウィンはエルネスティーネと視線を合わせようとしなかった。そして揺れ動くたき火の炎の一点に焦点を合わせたよう顔を動かさず、ルネの髪を撫でながら静かな口調できっぱりと告げた。
「この呪法はおそらく、術者である【真赭の頤】以外の人間が解くことは不可能だよ。呪法の原理はネスティだって知っているはずだ」
「しかし、先生」
エルネスティーネはそんなことはわかっていると言いたげに食いついた。
「呪法は、術者より高位の力を有するものがいれば解くことができると習いました。先生ならそれができるはずです」
それだけ言うと、エルネスティーネは堰を切ったように泣きじゃくり始めた。
「理不尽……ずぎばず(過ぎます)」
傍にいたシェリルがエルネスティーネをそっと抱きしめると、エルネスティーネはシェリルにすがりつくようにして嗚咽を漏らした。
エルデはエルネスティーネの姿を何も言わずにじっと見つめた。
そんなことは誰もがわかっていた。呪法を解く事は術者か、圧倒的に高位の呪法を使える術者でもない限り不可能な事なのだ。大賢者【真赭の頤】の用いた複雑で長時間にわたる拘束力を持つ呪法が低位な呪法であるわけがない。今まで聞いたこともないような呪法を解くほど圧倒的な力を持つものなど、もはや神以外にはいないだろう、と。
エルネスティーネ自身もおそらくその程度の知識はあるだろう。だから理解はしていたはずである。ただ、彼女は悲しかったのだ。
この広いファランドールの野で、同じ夕日を眺めて語り合える友と出会った。だがその友は体の感覚を失いながら、理不尽な試練に立ち向かっているという。その事実を直視することが耐えられなかったのだ。
いや……ただ、エイルを助けたいという、素朴な思いだけがそこにあったのかも知れない。
「心配いらないよ、ネスティ」
それまでエルデに体を預けたままで沈黙を守っていたエイルが体を自分の支配下に置くと肩を震わせているエルネスティーネにそう声をかけた。
「こんな試験、天才エイル・エイミイにとっては簡単な事さ。間違いなくこの呪印は消えて無くなる運命にある」
【消えて無くなるのが俺らやないとええけどな】
『黙れ』
それを受けて、しばらく沈黙を守っていたアプリリアージェが目を伏せたままでつぶやいた。
「これでわかりました。味覚がないのも、嗅覚がないのも、左の耳が聞こえないのも、全部その『喰らい』の呪法とやらのせいだったんですね……」
その言葉に、エルネスティーネはくしゃくしゃになった顔を上げてアプリリアージェの方を見た。
「耳が聞こえないのですか?」
エイルではなく、アプリリアージェがそれに答えた。
「ええ。左耳だけのようですけど」
『やっぱり、バレてたんだな』
【まあ、バレバレやしな】
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