第二十一話 痣
部屋の入り口のドアをノックする音がした。
遠慮がちな音ではあったがもちろんそこにいた全員がその音には気づいた。
「どうぞ、お入りください」
アプリリアージェはよく通る声でノックにそう答えた。
彼女には訪問者が誰なのかは予想できた。ノックの音と同じように遠慮がちに開いたドアからのぞいた顔はシェリル・ダゲットだった。
「いらっしゃい。久しぶりね、シェリル」
「ご無沙汰しています、ユグセル中将」
「ちょうどお茶の時間だったのよ。そうですね。あちらで一緒にいただきましょう。先生、少しの間失礼しますね」
アプリリアージェはそう言ってハロウィンに軽く会釈をすると、ハロウィンの反応など待つこともなく視線を移し、附室にあるテーブルにシェリルを誘った。
(相変わらず「ユグセル中将」なのね)
約一年前、アクラムの森で行われたフィリスティアード隊との戦闘に負けて捕虜になった際、戦闘員はサラマンダ駐留の部隊に引き渡されたが、生き残ったメビウス・ダゲット副隊長のたっての頼みで一部の非戦闘員は秘密裏にシルフィードのエッダに送られてそこで暮らすことを許されていた。シェリルはアプリリアージェの「つて」でキャンタビレイ家にしばらくの間居候として身を置いていたのである。エッダに駐留している間は、時間があけば頻繁にシェリルの様子を見に来ていたアプリリアージェだったが、シェリルはそんなアプリリアージェに対して決して心の最後の扉を開くことはなく、「リリアと呼んで下さいな」とアプリリアージェが再三乞うたにもかかわらず結局最後まで「ユグセル中将」という呼称を変えることはなかった。
もちろん理由がある。
その理由をアプリリアージェも痛いほどわかっているだけにそれ以上は何も言えなかった。
シェリルは聞かされていた。アプリリアージェ本人に。
「私がフィリスティアード兄弟を手にかけました」
そう。あの二人との戦闘は公式にはすべてアプリリアージェ・ユグセルのみが関わった事になっていたのだ。
「ルルデ・フィリスティアードはあなたの婚約者だと伺いました。お気の毒です」
シェリルはあの戦いの後、ルルデの戦死を告げにアプリリアージェがやってきた時のことを思い出していた。
目の前にいる、自分よりも小柄で年下にしか見えないダーク・アルヴが口にした言葉をシェリルはしかし、まるで理解できずにいた。ただ目を見開いて、その場に立ちすくむだけで、何を言っていいのか、何をしていいのかが全く思いつかなかったのだ。
部隊を送り出してしばらくの後、シェリル達後方部隊のいる本拠が黒い軍装の一団によってあっという間に占領されたと思ったら、しばらくして目の前に現れたのがその黒髪の少女だったのだ。
緑色の眼をした黒髪の小柄な少女が、微笑みを浮かべながら告げる言葉は、およそ場違いとしか思えない内容だった。
こんな少女が告げる内容だろうか?
笑いながら告げていい内容だろうか?
そんな情景が現実であるはずがなかった。
ルルデは若いけれど剣の腕前では部隊でも一二を争うほどだし、ルルデの兄で指導者であるシエナが戦いで負けるはずがなかった。
ましてやこんな少女に命を奪われるなど……。
「嘘です」
シェリルがアプリリアージェに向かって最初に口にした言葉がこれだった。
「それは嘘です」
シェリルがそう告げても、隊長だと名乗ったその少女は顔色一つ変えずに、優しい微笑みを浮かべたままで後ろ手に持っていた短剣をすっとシェリルの前に差し出して見せた。
「彼の遺体は損傷が激しくてとてもお見せすることはできないため、勝手ながら現地で既に荼毘にふしました。代わりにこれを」
その短剣には確かに見覚えがあった。
その日、戦いに向かうルルデが腰につけていたものだった。そしてそれは、見送る際にシェリルが手渡したものだったのだ。
「嘘よっ!」
「今はまだこれをお渡しする訳にはいきませんが、しかるべき手続きが済めば彼の形見としてお返ししましょう。それから、ルルデ・フィリスティアードの名誉のためにあえてお伝えしておきます。聞くのは辛いでしょうが婚約者として、また戦場で生き残った者の義務としてお聞き下さい」
シェリルはぶるぶると震えていた。
(何なの、この子……何故こんな子が戦争をしているの?
隊長?
この子にルルデが殺された?
人を殺した後でなぜこんなににこやかに笑っていられるの?
そんなことは有り得ない。
私は訳のわからない夢を見ているに違いない。
そうじゃないと……)
「彼は気高い兵士でした。彼を倒せたことを同じ兵士として誇りにしたいと思います」
シェリルの受け答えにはお構いなしに褐色の肌をした愛らしいダーク・アルヴの少女はそれだけ言うと、後の事は担当兵士に尋ねるように告げ、シェリルの前から立ち去った。
残されたシェリルはその場でただ立ち尽くしていた。
そして気がついた時は床に崩れて大声を上げて泣いていた。
泣いていたはずだったが、声だけで涙が出なかった。
涙が出るようになったのはもっとずっと時間がたってからのことだったのだ。
そんなシェリルをアプリリアージェはいつも気にかけていた。
それはもちろんシェリルにもわかってはいたが、かと言って自分の許嫁と自分たちの指導者を手にかけた女に気を許すことなどできなかった。もっと積極的に言えば憎んでいた。そして、その憎んで居るはずの少女を嫌いになれない自分に嫌悪していた。
アルヴ族との接触がほとんどなかったデュナンのシェリルは、少女だと思っていた敵の隊長が自分の年の二倍近い年齢だと知らされた時にも驚いたが普段はおよそ軍人とは思えない様子にも戸惑いを覚えた。
吸い込まれるような優しい笑顔とおっとりしたしゃべり方をするこの人がなぜ、と言う思いに駆られたのだ。シェリルの部隊にも女戦士はいたし、今まで何度も女の軍人にも出会ってきた。だが、アプリリアージェはその誰とも違っていた。
本当にこの人に人が殺せるのだろうかという疑問が大きくなり、それに呼応して憎しみが薄らいでいく恐怖に苛まれた。
だからこそそんな自分の中に生まれた思い、いや疑問に蓋をする為にも敢えて呼び続けることにしたのである。「ユグセル中将」と。
「彼にはもう、会ったのでしょう?」
黙って席に着いたシェリルの前にカップを置きながら、アプリリアージェは単刀直入に切り出した。
エイルに会えば、絶対に疑問が生じる。そしてその疑問をぶつける相手は私しかいない。
シェリルの来室は必然と言えた。
だがアプリリアージェはシェリルの疑問に答える為に彼女を待っていたわけではない。シェリルを利用する為に待っていたと言った方が適切だろう。
シェリルはアプリリアージェの問いには答えず、顔を上げると強い眼差しで紅茶を注ぐ小柄なダーク・アルヴの緑の瞳を見据えて言った。
「教えて下さい。本当にルルデは死んだのですか?」
アプリリアージェはその問いには答えなかった。シェリルの問いかけなど無かったかのようにいつもの微笑みを浮かべたままで、ゆっくりと紅茶を注ぐことに神経を集中させているようだった。
笑っているようにしか見えない顔が、提督と呼ばれるこの小柄な少女の普通の表情なのだと知ったのは初めて出会ってからずっと後の事だった。捕虜の担当の兵から言われても当初は信じられなかったものだ。
「エイル・エイミイという人物に会って、あなた自身はどう思いましたか?シェリル」
シェリルの問いに対してアプリリアージェは問いかけで応えた。しかし、シェリルはその問いに素直に答えた。
「ルルデにしか見えませんでした……。広いファランドールですから似た人はいるのでしょうけれど、あそこまでそっくりな人がいるとは思えません。教えてください。ルルデをあそこで火葬にしたというのはウソなのでしょう?」
「あの少年がルルデ・フィリスティアードだと本当に思いますか?」
またもや質問に質問で返すアプリリアージェだったが、シェリルは同じく答えた。アプリリアージェという人物はいつもそうなのだ。答えることが出来ることにしか答えてくれない。
「わかりません。肩にあったはずの大きな傷はありませんでした。治っているけど消えない大きな傷跡だったんです。でも……」
「でも?」
「どう見ても私にはルルデだとしか思えないんです。確かに雰囲気がちょっと違うし、言葉遣いもサラマンダ人とは違います。でも、私が見間違うわけがないんです。小さい時からずっと一緒だったんですよ?毎日見ていたんですよ?それに、最後の方はもう一緒に暮らしていたんです。だから」
「本人だと?」
だが、シェリルは頭を左右に振った。
「でも、傷跡は無かったんです。無理を言って見せて貰いました。でも、無かったんです」
そこまで言うと、堪えていたはずの涙がまた溢れてきて、頬を伝った。それを見てアプリリアージェは紅茶が注がれたカップを受け皿ごとそっとシェリルの方へ差し出した。
「他にありませんか?」
「え?」
うつむいていた顔を上げると、シェリルの前には、いつものように微笑んでいるアプリリアージェの小さな顔があった。
「肩の傷以外にルルデの体の特徴的なところ……。あなたはルルデの恋人、いえ婚約者だったのですよね?普段は見えない部分、もしくは本人が気づかないところに、傷やしみやほくろと言った特徴的な徴があるはずです。あなただから知っているような」
アプリリアージェの言葉に目を伏せたシェリルは何かを思い出すようにしていたが、急に顔を上げた。
「あります」
「さしつかえなければ教えてもらえますか?言いにくいのでしたらもちろん言わなくても結構です」
「いいえ」
シェリルは小さく首を横に振った。
「彼のお尻……右側の内側に小さな痣があります。本人からは見えない部分で私が指摘するまで知らないようでした」
「なるほど」
アプリリアージェはシェリルの話をきくと腕を組んで首をかしげ、少しの間考え込んだ。
「シェリルが教えたから、ルルデはもうその痣の事を知っているわけですね」
「ええ」
「そうですか」
「それが、何か?」
「確かめて見ませんか?もう一度」
「え?」
思いもしなかったアプリリアージェの依頼にシェリルは目を見張った。
「リリアさん」
アプリリアージェ微笑を深めると小さくうなずいた。
シェリルが思わず呼びかけたのは「ユグセル中将」ではなく「リリアさん」だったのだ。呼びかけられたアプリリアージェは敏感に反応したが、当のシェリルは気付いていなかった。
「あの時の事を全部お話ししましょう。その代わり協力すると約束してくれませんか?」
シェリルはゴクンと音を立ててつばを飲み込むと、ゆっくりとではあるが、力強くうなずいた。
「頭では理解していても納得していないのは実のところ私も同じです。つまり私もエイル・エイミイは実はルルデ・フィリスティアードなのではないかという疑問を持っていて、それを完全には拭い切れていないのです」
「それって、つまり」
「ええ。ルルデ・フィリスティアードは確かに私の矢で体を貫かれはしましたが、実は私達は彼の遺体の確認はしていないのです」
「生死はわからないと言うこと……ですか?」
シェリルの問いに、しかしリリアは否定も肯定もしなかった。
「事実のみを言います。ルルデ・フィリスティアードは矢で射られた。三本の矢は通常であれば即死と思える部位に深く突き刺さりました。生死が確認できなかった理由……それは彼がその後すぐに消滅したからです」
「消……滅?」
アプリリアージェは今度はうなずいた。
「ええ。ですからルルデはあそこで火葬にされた訳ではありません。忽然と消滅して、そのままなのです」
「どういう、ことですか?」
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