第二十話 メッダの鐘 8/8

 数日後に、ティアナはその話をファルケンハイン・レインにした。同じ部隊の戦友としてともに戦うだけでなく、多くの旅を通じて二人を身近なところでよく知っているファルケンハインの率直な意見を聞こうと思ったのだ。

 ファルケンハインはその話を聞くと普段無愛想な顔に珍しくニヤリとした笑みを浮かべてこう言った。

「それは司令もあまりに謙遜しすぎだな」

「やはり、そうでしたか」

 ティアナはファルケンハインの言葉を聞いてある意味ほっとした。

 だが、その安心感はほんの一瞬のもので、ファルケンハインが続けて放った言葉を聞いて戦慄が走った。聞かなければ良かったとすら思ったものだ。

「俺やアトラックならともかく、司令ほどの強さなら少なくとも三十秒か、そうだな、多少運が良ければ一分くらいならなんとか生きていられるかもしれない」

「なん……?」

 驚いてのぞき込んだファルケンハインの顔はいつもの無愛想な顔に戻っていた。ファルケンハインは気の利いた冗談が言える男ではない。その男が告げる「三十秒」にはアプリリアージェのいう「瞬殺」よりもむしろ生臭い真実味があった。



「さあ、そろそろ出発しましょう。夕方になると冷え込みます。日の高い今のうちにもう少し距離を稼いでおきましょう」

 アプリリアージェの言葉に、ティアナはハッと我に返った。

 そんなティアナを微笑みながら見つめると、アプリリアージェは思い出したように付け加えた。

「そうそう。それからエイル君はデュナンの少数部族ではなくて、どう見てもピクシィですよ」


 ピクシィ。

 その言葉はシルフィードの人間には特別の意味を持つ。

 だからこそそこのところをティアナにきっちりと認識させておこうとしたのであろう。

「辺境を戦場とする我々はピクシィが全滅したのではないということを知っています。勿論純粋なピクシィかどうかはもはや本人でもわからないでしょうが、少なくともいわゆるピクシィの特徴を持つ人間は少数ですがファランドールで暮らしているのです。エイル君もその一人なのでしょう」

 ティアナ自身も薄々はわかっていた。

 敢えて「デュナンの少数部族」という言葉を使っていたに過ぎない。

 アプリリアージェがそう言ったことで自分自身の中でそのことを「府に落とす」ことが出来たティアナは、少しだけ胸の奥にある靄が晴れて気分が軽くなるのを感じた。

 立ち上がるアプリリアージェに続き、ティアナはさっと身の回りの確認をすませると立ち上がった。そして周りを何食わぬ顔で見渡し誰も自分に注意を払っていないことを認めると、耳飾りを小さくはじいて、誰にも聞こえないお気に入りの音を奏でた。

 それは一瞬間の、リリスとスフィアの奏でる小さな音楽会であった。



 エイル達が出立する朝、カレナドリィは自分の命の恩人をルドルフとともに見送るつもりでいた。だが、目覚めがいい事については自負さえしていたカレナドリィだが、その日に限って目を覚ますことが出来なかった。それが実はエルデのかけたルーンのせいだと言うことは当然ながら本人はわかってはいなかった。

 寝過ごしたことに気づいたカレナドリィは、慌てて寝間着に薄手のガウンを羽織っただけの、年頃の娘としてはやや悩ましい姿で住居に隣接している蒸気亭の厨房に駆け込んだ。


「お父さん!」

「おう、起きたか」

 ルドルフは朝食用のベーコンを長い包丁で薄くスライスしている最中だった。

「エイル君達は?」

「ああ」

 ルドルフは曖昧にそう答えると言いにくそうに言葉をつないだ。

「ちょっと前に出て行ったよ。なんでも今日は道程を稼ぎたいから早めに出発したいとかでな。暖かい朝飯を勧めたんだが、夕べ用意していた弁当だけでいいってんで、大した別れの挨拶も出来ずじまいだったが」

 カレナドリィは父親を睨み付けて唇を尖らせた。

「なぜ起こしてくれなかったの。私だって見送りたかったのに。それくらいお父さんもわかってるでしょ!」

「いや、何度か声をかけたが、お前全然起きる気配がなかったじゃないか」

「え?」

 ルドルフは娘からまな板の上のベーコンの固まりに視線を戻すと、仕事を続けながら言った。

「お前にしちゃ珍しく寝起きが悪かったんで、まだ本調子じゃないと思ってそれ以上は起こさなかったんだ。賢者……いや、エイルもわざわざ起こすなって睨み付けやがるんでな」

「でも、私の命の恩人なのよ。それに」

「それに……何だ?あのボウズに惚れたか?」

「何を言っているのよ、お父さんのバカっ!」

 カレナドリィは一瞬で顔を真っ赤に染めてそう怒鳴ると、きびすを返した。

 ルドルフは店の扉を開けようとしている娘に、背中を向けたまま声をかけた。

「おいおい、今から追いかけてもムダだぞ。かれこれ二時間も前に発ったんだからな」

 カレナドリィはしかしそんな父親の背中に一瞥をくれると、店のドアを開けて通りへ出た。

 ルドルフは小さなため息をつくと、目の前のベーコンに集中する事にした。


 カレナドリィは、もちろん扉を開ければ、そこからエイルの後ろ姿が見えるなどと思ったわけではない。ただ、外に出る事にによって外の空気でエイルと繋がり、より近くに感じられると根拠もなくそう思ったのだ。

 一昨日、昨日と、カレナドリィはエイルの手を引いてランダールを縦横無尽に駆け巡り、自分の大好きな町を案内して回った。それはカレナドリィが生まれて初めて感じたふわふわとした夢のような時間だった。理由はわからない。ただ、黒い髪と黒い瞳をした風変わりな少年と居ると、心が浮き立った。

 不思議な力に心が惹かれたのか、神秘的な瞳髪黒色に興味を持ったのか、はたまた時々自分を優しく見つめるその顔に安らぎを覚えたのかすらもカレナドリィには分析できなかった。ただ、もう一度会いたいというのは素直な気持ちだった。そしてもう会えないだろうと思った後には、少なくとも自分の感謝の気持ちが開けた空間に出れば少しでも伝わるかも知れないと言う他愛のない子供じみた衝動になり、扉に手をかけさせたに違いなかった。


 秋が深まろうとしているひんやりとしたその日のランダールの空は青く澄み渡って、それはエイル達一行の今日の旅の道程が快適なものになることを示しているようで、カレナドリィは寂しさに包まれながらも少しだけ安らいだ気持ちになった。


 その時だった。

「おはよう、黄色い髪の綺麗な娘さん」

 左手の方から突然声をかけられた。女性の声だった。張りがあり、良く通るアルトだ。

 人がいるとは思っていなかったカレナドリィは驚いて反射的に声のする左の方を見やった。

 だが、視界には誰も入らなかった。

 不審に思って視線を戻すと右側の視界に四本弦の小さな楽器を抱えた吟遊詩人が立っているのが見えた。


「エイル・エイミイに会いたいだろう?」

 カレナドリィが声をかける前に、吟遊詩人が声をかけた。

 一瞬戸惑ったカレナドリィだが、思わず「ええ」と言って小さくうなずいた。そう言った後で自分がまだ寝間着姿であることをようやく思い出すと無意識にガウンの前を合わせた。

(誰?エイル君の知り合い?)

 疑問が頭に浮かんだが、考えを整理する前に吟遊詩人は弦楽器を持ち上げてボロン、っと弦をかき鳴らした。

 その楽器の音を聞いたカレナドリィの思考が、そこでピタリと止まった。それはまるで、窓のない部屋の扉が閉まるかのように。


「カレン・ノイエ。我が忠実なる僕よ。我が名に於いてお前に命を下す」

 遠目には、二人の人間が単に立ち話をしたようにしか見えなかったに違いない。

 ほんの二言三言しか言葉を交わさなかった二人を見た人間は、女吟遊詩人が道でも尋ねたのだろうとしか思わなかったであろう。

 だがその時、女吟遊詩人の額をもし目撃した者がいたならば、腰を抜かしていたに違いない。なんとそこには第三の目が開かれていたのだから。

 

 アルヴの吟遊詩人は、その場を慌てる風もなくゆったりした足取りで立ち去り、広場へ続く道に姿を消した。その後ろ姿を少しの間見送っていたタンポポ色の髪をしたデュナンの娘は、やがて踵を返して蒸気亭の扉の中へ消えていった。

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