第二十話 メッダの鐘 7/8
後世、吟遊詩人達に「酒のフェアリー」とも「酒聖」とも歌われる事になるアプリリアージェの酒好きはつとに有名だが、酒豪についての噂は大げさに過ぎるのが常である。だがティアナはこの時ばかりは思っていた。世間の噂とはとうてい本物の持つ迫力には及ばないのだ、と。
さらに驚いたのは、最後の方にはさすがにかなりろれつが怪しくなるまで飲んだはずのアプリリアージェが、翌朝出会ったときには何事もなかったかのようにケロっとしていたことだ。アプリリアージェ独特のふわりとした佇まいには酒気が全く感じられず、こちらから挨拶をする前に爽やかに「おはよう」と告げた笑顔を見たときにはいろいろな意味で「ただ者ではない」と心底脱帽していた。
ティアナとアプリリアージェの初見の際の話に戻ろう。
とても軍人……しかも中枢を担う中将という重鎮には全く見えない愛想のいい町娘のようなアプリリアージェの姿を見て戸惑っているティアナに、中将は目尻をさらに下げて微笑みかけると、続けた。
次にアプリリアージェによって放たれた言葉を聞いたティアナは、ある種のとまどいの中でふと緩んでいた緊張の糸が一気に張りつめた。
「私のことは肩書きでなければなんと呼んでもらってもかまいません。リリアでも、ユグセルでも、そして……『死に神』でも」
「め、滅相もない」
ティアナはその言葉に思わず片膝をついて目上の者に対する深い礼をすると、続けた。
「ご挨拶が遅れました。近衛軍宮廷警護部隊所属のティアナ・ミュンヒハウゼン中尉です」
そして次の瞬間「しまった」と思ったのだが……彼女にとっては後の祭りであった。
ティアナはたった一言で、まるで可憐な少女と言っていいような姿形のアプリリアージェに「呑まれて」しまっていたのだった。そして「笑う死に神」の二つ名と供に思い出した言葉があった。
「希なる戦略家」
ティアナにとっては出会った際のアプリリアージェのその姿形、佇まい、声色や表情すべてがすでに戦略とも言えた。そしてその後に放たれた的確な戦術。
それは「死に神」という短い単語だった。
決して呑まれまい。そして近衛軍の矜持にかけても自らの存在感を相手に刻みつけてやるというティアナの決意は、アプリリアージェに出会った瞬間に、掠ることもなく霧散してしまっていた。
(これが、アプリリアージェ・ユグセル……『笑う死に神』か)
ティアナは敗北を認めざるを得なかった。だが、そこには不思議と悔しいという感情は湧いてはこなかった。
(この人にはかなわない)
心に浮かんだ言葉……その言葉を素直に受け入れる自分自身を不思議に思いながらも、同時に殆どの人間がこの笑う死に神の前では自分がおよそ小者であることを自覚するに違いないという確信があった。
それはかつて若きエリートとして軍隊にその名を馳せたアトラック・スリーズがル=キリアに配属された初日に感じたものと同じであったのだが……いや、その話は今回は割愛しよう。
ただし……その時アプリリアージェにティアナの機先を制するなどという意図があったのかどうかは全くの謎である。ただ少なくともその後ティアナはアプリリアージェに対して一目を置くことになったのは事実であり、それは困難な旅を預かる身であるアプリリアージェにとっては極めて好都合な関係であったことは想像に難くない。
ティアナにとって噂通り、想像していた通りの人間はアプリリアージェではなく、むしろテンリーゼン・クラルヴァインの方だった。ティアナが慇懃に挨拶をしても向こうからは自己紹介は一切無し。いや、聞いているのかどうかすら不明な態度に困惑した。テンリーゼンはティアナの方を見向きもせず、常に一行から一歩下がって微動だにしないことが多く、ティアナはともすればその存在すら忘れることも多々あった。
「リーゼの事は気にしない方がいいですよ。むしろ普段は居ないものと思っていた方がいいかもしれません」
「はあ」
「戦闘になったら……もっともそんな事になっては欲しくないのですが……その時になれば自ずとクラルヴァイン提督の実力はわかります」
「はあ」
「まあ、もっともリーゼの実力を知る機会など一生ない方がいいのですが」
「はあ」
ティアナは実は自分がかなりマヌケであることをこの時初めて自覚することになった。
(「はあ」としか言えないのか、私は……)
そう思っては見たものの、「はあ」と曖昧な相づちを打つことしか思い浮かばなかったのだ。
だが、このままではアプリリアージェにただのバカだと思われるのではないかという危機感に苛まれて、「はあ」以外に思いついたことをつい口にした。
「その、少将……いえ、リーゼはどれくらい強いのですか?」
そう言ったとたん、赤面した。
ああ、私は本当にバカだなとティアナは思った。
逆の立場だったらいったいどう思うだろうか。気が利くとかそういう問題以前の質問である。「はあ」と言っていた方が程度としてはまだ賢く見えるに違いない。
だが、アプリリアージェはそういうティアナの忸怩たる思いを知ってか知らずか、にっこりしたまま考えるでもなく当たり前のようにこう言った。
「そうですね。私がもしリーゼと戦ったら」
ティアナはその前振りにハッとして改めてアプリリアージェの読めない表情を見た。微笑みの表情は変わらず、やはり読めないままだったが、ウソや冗談を言うという雰囲気でもなさそうだった。アプリリアージェという軍人は、もともとは白兵戦の強さによって掴み取った前線での戦功の多さで出世した人物である。ティアナの記憶が正しければ、確か軍内の規則に則って行われる「試闘」と呼ばれる一対一の模擬戦闘において不敗という記録を持っているはずの実力者であった。噂ではアプリリアージェの体にかすった者すらまだ居ないと言われている。そのアプリリアージェとテンリーゼンが戦うとどうなるのか。
ティアナは思わずつばを飲んで、次の言葉を待った。
「お遊び程度の試闘ならともかく、リーゼが本気を出したら間違いなく私は瞬殺されるでしょうね」
そう言って少し首をかしげて見せると、にこやかな笑顔をティアナに注いだ。
「ご冗談を」
ティアナはここではじめて「はあ」以外のまっとうな返答が出来たと思った。
テンリーゼンも試闘については無敗であったが、その回数が極めて少なかった。そもそも「試闘」とは、下士官以上の者で、かつ同じ階級同士でないと認められない競技である。テンリーゼンの場合は二階級特進などが数回もあり、出世の速度が桁外れなのである。つまり同じ階級にとどまっている時間が極端に短い為に試闘を申し込まれる機会すら殆どない状況だったのだ。さらに、准将以上の、いわゆる「提督」「閣下」と呼ばれる階級になると試闘も禁止される。そういう背景もあり、テンリーゼンの試闘の内容についてはあまり人の噂にすら上らない程度だった。「強者」と呼ばれる多くの猛者を笑顔のままで倒してきたアプリリアージェの華麗で豪華な評判に比べる、とテンリーゼンのそれはあまりに地味であった。
もっともテンリーゼンが強いであろう事は容易に想像できる。なにしろ戦いで異常なほどの功績がなければ、あの年齢で少将などになれるはずがないのである。常識を大きく外れているのは理解できる。だがしかし、それはアプリリアージェにも言えることなのだ。相当な強者同士の二人だが、片方に言わせると自分は相手の足元にも及ばぬと言う……その足元にも及ばぬ一人の天才にティアナ自身はおそらく足元にも及ばぬであろう事を感じていただけに、アプリリアージェの話は俄には信じられない……いや、信じたくない気持ちに支配されていたと言っていいだろう。
振り向く先にまさに人形のように佇んだままでいる小柄な少年を、剣の腕前に関しては相当の自負があるアルヴの戦士、ティアナは複雑な気持ちでみやっていた。
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