第十五話 水のフェアリー 2/3
ティアナは改めてまだ右手をつかんだままでいるファルケンハインを見やった。しかし、彼は何も答えず、ティアナと目が合うと、静かに目を伏せてみせただけだった。
「おいっ」
声をかけた時、またもや大きな音がした。
[ああっ]
エルデはルネを追いかけるどころではなくなった。一瞬のうちに何かを唱えたが、つぎの瞬間には彼が居た店のホールは、落ちてきた天井で埋め尽くされ、そこにあった空間はほぼ消滅していた。
[ふーっ]
『動けるのか?』
[幸い、この柱の直撃だけやったから防御の回数制限内で収まってる]
『で、動けるのかって聞いてるんだ。火が回っているし、下手すると酸欠か一酸化炭素中毒で死ぬぞ?』
[そう急かしなや]
エイル、いや体を制御下においたエルデは、倒れ込んで柱の下敷きになっている状態のまま、衝撃で少し離れたところにある仗を見つけると、鋭くその名を呼んだ。
「来たれ、ノルン」
数メートル離れたところにあった仗は、その呼びかけに応じ、一瞬後にはエルデの手に握られていた。
「エラスティアダーレス」
仗を握ったエルデがそう唱えると、体の周りに白い光が放たれた。
いや、それはよく見ると光ではなく、炎だった。赤くはない。白い炎だ。その白い炎が上がると、エルデの周りの木材や壁土などがあっという間に消滅した。エルデは圧倒的に高温の炎をルーンで呼び出したのだ。それは木材などは一瞬で消滅させるほどの高温の炎だった。
『なるほど』
[この前ドライアドの兵隊に使ったヤツよりさらに高位のルーンや。消耗が激しいけど、しゃあないな]
『それより、あの子』
[いや、もうムリやろ。俺らもあきらめて脱出するで]
『……くそっ』
[しゃあない。水のフェアリーやからって火を消しに来たんやろうけど……いや。うん、しゃあないんや。それより]
『それより?』
[どう考えてもこの火事はおかしいで。火の周りも異常に速いし、そもそも家屋崩壊自体が早すぎる。この程度の火事やのにものの二、三分で崩落とか考えられへん]
『それって……』
[ああ、誰かが仕組んだもんやろな。それも、ルーンか何かを使てる可能性が高い]
『俺たちを狙って、か?』
[今の段階ではそこまではわからへんな。狙われたんはル=キリアか、今日来たあの連中か]
『そうか』
[ともかく、ここを出よ。助けられへんかったんは残念やけど、引きずりなや]
『わかってるさ』
瓦礫の中に出来た空間を出口の方に広げようとして魔杖ノルンを構えた時、エルデは奇妙な感覚に襲われて身構えた。
[え?]
『うん?』
エルデが小さくルーンを唱えるのと、その天変地異が起こるのはほぼ同時だった。いや、天変地異とは言い難い。なぜならその異変が起こった範囲はきっちりその焼け落ちた宿屋の体積と等しかったからだ。
エルデは水の中に居た。厳密に言えば熱湯の中にいた。ただし、熱湯には触れてはいない。妙な空間に取り込まれていたからだ。そこに水……いや湯はあるのに手を伸ばしても触れられない。もちろん普通に呼吸もできる。
「よかったぁ、無事ヤってんね」
後方で声がした。聞き覚えがある声だ。
振り向くとそこには、赤毛の小さな女の子が満面の笑みを浮かべ、何事もなかったかのようにたたずんでいた。
「みんな無事ヤで。宿の人も助かった」
「ええ?」
[えっと]
『どういう、ことや?』
[えーっと]
『おい』
「とりあえず、ここ出ヨ」
赤毛の少女、ルネ・ルーはそう言ってエルデの手を取った。すると熱湯の幕のようなものが一斉に床に広がり、あたりは水浸しになった。
「ふふふ」
ルネは戸惑うエルデを見ると可笑しそうに笑いながら、引き続その手をひっぱり、当然のように出口に向かって歩き出した。
そのとき、エルデ達と入れ違いに、鎮火を確認した消火隊と思われる屈強な若者が数名、店の中に入ってきていた。
「無事か?」
二人の姿を見つけた先頭の男がエルデに訪ねた。
だが、エルデよりも先にルネが答えた。
「大丈夫。宿の人も奥に無事でおるデ。気ぃ失ってるけどケガはないと思うワ」
「そうか。あの状況で助かったとは信じられんが、兄ちゃん、水のフェアリーなんだな」
「延焼も食い止めてくれて助かった」
「もう大丈夫だ。あとは俺達がやる。安全なところに避難してくれ」
「ありがとよ、兄ちゃん」
消火隊員達は怪訝な顔でルネをみたが、すぐにエルデに向かって口々にそう声をかけ、さっさと奥に走っていった。
説明をする暇も、いや一連の出来事を説明することが出来ないエイルは、彼らの飾らぬ賞賛と感謝の言葉を居心地の悪い気分できいていた。ルネはそんなエイルに対し何も言わず、手をつないだままでにっこりと笑ってみせた。
「おお、よく見りゃ夕べの英雄のアンちゃんじゃないか。あんた水のフェアリーだったんだな」
「いやいや、驚いたぜ。でも助かった。外回りの後処理は俺達がやるから、この場消火隊と俺達に任せな。おっつけ加勢も来るしよ」
通りに出ると、見知った顔がエイル達を迎えた。昨夜、蒸気亭で弓を番えていた自警団の二人だった。
[お言葉に甘えて退散しよ。これ以上目立ちたくないし、長居は無用や]
『そうだな』
「じゃ、後は頼んだ」
「ああ、今日も蒸気亭に泊まるんだろ? 後で一杯おごらせてくれや」
そう男は厳つい髭面でエイルにウィンクして見せた。
「ただし、ヨーグルトだぜ」
「ははは」
エイルは引きつったような顔でぎこちない笑顔を浮かべると、先ほどとは逆に今度は自分がルネの手を引いて小走りにその場を去った。エイル達に気がついた数名の野次馬に声をかけられたが、何も答えず、そして振り向かずに近くの路地に飛び込み、大回りをしてから野次馬の集団の後ろに出た。
「おーい、オヤジがいたぞ。おっ母さんも無事だ!」
「今タンカがそっちに行く!」
店の奥からの呼び合う声が聞こえた。
『ふう。やれやれだな』
[ホンマに助かったようやな]
エイルは安心するとその場を後にしようとした。が、そこでルネの手を握ったままだったことに気づいた。
「あ、ごめんごめん」
そう言って横合いのルネを見ると、赤毛の少女はエイルを見上げてにっこり笑いかけてきた。
「うん。やっぱり兄ちゃんはルルデとは別人ヤね。ルルデは水のフェアリーとちゃうもン」
「お嬢ちゃんは水のフェアリーなんだな。さっきのはすごかった」
「『お嬢ちゃん』ヤのうて、ルネ・ルーや。ルネでええよ。それよりウチもやけど、お兄ちゃんもなかなかのもんやワ。建物を壊さへんであの火を一瞬で鎮火できるんやモん」
「そいつは、どうも」
『って言うか、魔傘とは思うけど、この子は建物を壊して鎮火するつもりだったのか?』
[つっこむ所はそこやないやろ。建物ぶっ壊すほどの強い能力をその子が引き出せるっちゅう事に驚け。さっきの瞬間水槽状態といい、底知れんガキンチョやな]
『それ、おまえにしてはすごいほめ方だな』
[ま、まあ、あの程度の水のフェアリーならそこそこおるやろ]
『ふーん。お前があの時あっけにとられて固まったほどだから、俺はものすごい力なのかと思ったんだが』
[あ、いや、まあ、確かにあそこまでの力やとそれほど多くはない……かな]
『どちらにしろ、お前の水芸に比べてもたいしたものだよな』
[誰が水芸やっ。つーか、確かにあれほどのフェアリーは珍しいわ。ふん]
『今度は開き直りかよ』
[あーあー、そうやとも。俺のは所詮水芸ですよ。こんなガキんちょの足下にもおよびまへん。へなちょこですんませんでしたっ]
『いや、そう開き直られても』
[冗談はともかく、確かにこんな豪快で精密な技が出せる水のフェアリーは見たことない。いや、聞いたこともない]
『へえ、お前がそう言うとすると、そりゃ最大級のほめ言葉だな』
[誰が水芸やねん]
『は?』
「おーい、気をつけろ、乾いたところからまた煙が上がりだしたぞ」
一安心したのも束の間、誰かがまた不気味な事を叫んだ。みると確かに数カ所から太めの白い煙があがっていた。
木材建築の火事はやっかいだ。表面上いったんは消えたように見えても、内部まで水が浸透していなければそれは熱で乾き、そのうち発火する事はよくある。
[これでも水芸言うんか]
エルデはエイルに心の中でそう言うと、例によって小さく何事かを口の中でつぶやいた。
「ヴェルダーリャ クドフェルカスタ リス」
「うおっ」
火事場を取り囲んでいた野次馬から一斉にどよめきがあがった。それもそのはずで、空中に突然巨大な水の固まりが五つか六つ出現したのだ。それはまるで小さな池の水がそっくりそのままの状態で浮かんでいるような情景だった。
「グラヴン」
エルデがまた小さくつぶやいた。すると今度はその声に呼応するように、空中に浮いていた水の塊のうちの一つが突然浮力を失い、崩れるように落下した。
ドンッという、およそ水音とは思えない鈍い音がしたかと思うと、くすぶり始めていた建物全体が再び水浸しになった。
続けて同様のことが、五回、六回と続き、空中に浮かんでいた水塊がすべて火事の建物に降り注いだ。建物はもちろん水浸しで、煙の立っていたところからは水蒸気しか上がっていなかった。ただ、あまりに大量の水がいっぺんに降り注いだため、あたりの道は少しの間、川のようになり、周りを囲んでいた野次馬たちはずぶ濡れになっていた。
[どや?]
『どや? って。いや、いい。あれだ。前からそうだと思っていたんだが、今こそ是非言わせてくれ』
[うんうん。言うてみ。言うてみ]
『お前って、本っ当にガキだな』
[なんやてっ! すごいやろ? 今の、ものすごいルーンやろ? さっきのガキにもまったくひけをとらへんくらい強力で精緻な力やろ? おまけにあのガキと違ってこっちはキチっと見せ物的な要素まで取り入れて、効果と見た目にこだわった、まるで芸術のような]
『はいはい。お前の負けず嫌いには心底恐れ入ったよ。見ろ、この女の子も呆れてるだろ』
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