第十五話 水のフェアリー 1/3
『おいエルデ!』
[わかった。しゃあないな]
助けを求める声に反応したエイルはかけだしていた。
「おい、どうするんだ?」
背後からアトラックの声が聞こえたが、もちろんエイルは無視した。
ハロウィンは遠ざかるエイルの後ろ姿を見ながら、小声で横にいたルネ・ルーの名を呼んだ。
「ルネ」
「うん、任セて」
ハロウィンに名前を呼ばれたルネが、すぐさまエイルの後を追ってかけだした。
『たよりにしているぜ、賢者さま』
[フン、誰にものを言ってるんだか]
「逃げ遅れているのは何人だ?」
遠巻きにしている避難客と野次馬をかき分けると、エイルは大声でそう尋ねた。
「この店の主人と、その母親です。母親は年寄りで……」
助けを求めていたのは店の給仕をやっているやせぎすの中年女だった。彼女はすがるような目で声の主の方へ顔を向けたが、声の主であるエイルが子供だとわかった瞬間にその目は失望の色に染まった。
「おい、子供が無茶するんじゃない」
「危ないから、消火隊が来るのを待て」
「気持ちはわかるがなあ」
周りから口々に声が聞こえた。エイルはそれを当然のように無視して燃えさかる炎と対峙した。その時エイルのごく近くにいた野次馬には、彼が何事かを一言二言つぶやいたようにも見えた。そして彼らはいつの間にか仗を手にしている黒い髪の少年が、ためらいもなく建物の中に飛び込んで行く姿を見送ることになった。
炎と煙に包まれた店内に駆け込んだエイルは、いったん立ち止まるとあたりを見渡した。飛び込んだものの、建物内は真っ黒な煙のせいで人影を捜すどころではなかった。回りの熱で体がすぐにも発火しそうだが、エルデのルーンに守られて実際にはダメージはない。だがエイルの知る限り、この防御ルーンはそれほど長くはもたないはずだった。
エイル、いやエルデの口から再び短いルーンが詠唱されると、それに合わせて手に持った仗が水平に一振りされた。と思った瞬間には店内は水浸しの状態になっており、今度は煙に加え、水蒸気が新たな真っ白な闇を作り出した。
エルデの行為はまさに一瞬の出来事だった。
この一瞬の出来事を説明するのは難しいが、瞬きする間に火は消え、そのかわりにあたりは水浸しで、至る所から炎の代わりに煙と水蒸気があがっていたとしか言いようがなかった。
少なくともその店を取り巻いていた人々の目にはそう映ったのだ。いったい何が起こったのかを理解できる人間は、当然ながらそこにはいなかった。
[ち。加減しすぎたようやな。まだ火の手があるんか。いや、熱のせいで再発火したってところかな]
ほとんど消えたはずの店内だったが、いくつかの場所でまだ炎が上がっているのが見えた。
その様子を見てエイルが、仗を構えて再び何かを唱えようとしたその時であった。火の手が残っていた所に忽然と奇妙なもの出現した。ぶわぶわと揺れながら空中に漂うそれは、水の固まりとしか言いようがなかった。続いて数え切れない程の水の塊が背後からやってくると、そしてそれらはお互いにぶつかって、弾けていった。
[え?]
『え?』
エイルは水の固まりが飛んできた後方を見やった。
店の外には見覚えのある人物がいた。それはさきほどのシェリルがいた一行の一人である、赤毛の小さな女の子だった。彼女は次々に腕を伸ばしてどこかを指差している。再び店内に目を転じると、ところどころ、まだ白い煙が出ているところに、的確に水の塊が落下しているのが見えた。
エイルは大小の水の固まりが現れては店内を鎮火していく様をぼーっと眺めていた。
「行っけー!」
いつの間にか店内に入り込んでいたルネのかけ声がすぐ側で響いた。声に併せて空間に出現した水球がぷよぷよと浮遊し、炎の上で落下する。
何度かそれが繰り返されていった。
『まるで管弦楽団の指揮者のようだな』
[このお嬢ちゃん!]
『これが水のフェアリーってヤツか?』
[っつうか、感心して眺めてる場合やなかったな。店の親父とそのオフクロさんを探さな]
『ああ。思わず目的を忘れて見とれちまった』
エイルが建物の奥に駆け出そうと足を一歩踏み出したとき、店内に異音が走った。それは何かが裂けるような、あるいは割れるような、ギシギシともバリバリとも聞こえる、要するに大きなものが軋む音だった。
その音を聞いたエイルの足は固まった。
[まずいっ]
振り返ったが、出口までは遠い。
逃げて間に合うのか?
それよりもほかの方法をとるべきか?
エイルは躊躇した。
奥に人がいることはわかっている。だが建物が崩壊しつつあるのは確かだ。
『おい、この子を』
[あ、ああ、そうやね]
エイルはエルデにルネの保護を促した。しかし、当のルネは左の掌を大きく広げてエイルに突き出して見せた。
「ウチが行く。早う逃げテっ!」
「ええ?」
思いもしなかったルネの言葉に虚を突かれたエイルだったが、そのエイルの返事を待たずに、ルネはそのまま転がるように店の奥に駆け込んだ。
「おい、待てっ」
ルネの背中を追ってエイルが一歩踏み出したとき、轟音が響いた。それは建物が崩壊がはじまった事を示す号砲であった。
「おいおい、大丈夫かよ?」
「大丈夫なわけないだろ、誰か何とかしとくれよ」
「そんな事言われてもどうしようもねえよ」
二人の子供が中に入ったのを見送った人々は互いに心配そうな顔を見合わせていた。
「誰か、助けて」
悲痛に叫ぶ女の声が耳に届いてはいたが、火勢がどうしようもない。エルデとルネは取りあえず内部の火を鎮火したものの、二階部分や外に面した炎の面倒まで見ていたわけではなかった。救助の為の経路確保が目的だから、自分の周りの炎を消して煙を排除し、呼吸できる状況を作り出す事を優先したのだ。
野次馬達からは大きな水蒸気があがるのは見えたが、内部の様子は詳しくはわからない。
消火隊の到着をいたずらに待つだけの自分たちにいらだちを感じ始めていたところへ、建物から絶望的な音が響き、次いで宿の二階の一部が崩れ落ちるのを目撃することになった。
「崩れるぞ!」
「こりゃもう、ダメだ」
人々が絶望を口にする。しかし、手の施しようがない状態は変わらなかった。いや、むしろ悪化していた。内部に入ることはもはやどうあがいても不可能だろう。
「ハロウ先生!」
そんな中で平然と腕を組んだままで成り行きを見守っているハロウィンに、ティアナがこらえきれずに声をかけた。
「ハロウと呼んでくれたのはうれしいけど、先生はいらないよ」
だが、ハロウィンの反応は落ち着いたものだった。
「もう倒壊します、ルネが……」
「あの子は大丈夫。だが」
ハロウィンはそう言うとファルケンハインの方を見た。意見を請われたハロウィンはうなずいて口を開いた。
「私見ですが、エイル・エイミイが考えなしに突入したとは思えません」
「ほう、やはりな」
二人の平然としたやりとりにティアナは切れた。
「二人とも何をのんきに構えているんですっ、かくなる上は私が行きます」
そう言って体を動かそうとしたが、片手を誰かに強く捕まれて動きが止まった。ティアナは振り返って自分の右手をつかんだ腕の持ち主をたどった。
予想通りというべきか、それはファルケンハインの腕であった。
「今から行くのはそれこそ無謀だ。今は待とう」
「しかしっ!」
「ああ!」
「崩れたぞ!」
そう誰かが叫んだ。
店はその直後にひときわ大きな音を響かせて、一気に崩れ落ちていった。
そこここで悲鳴があがった。
すぐ近くでも……。シェリルが耳を押さえてしゃがみ込んでいた。
それを見たエルネスティーネが駆け寄り、同じようにしゃがんでシェリルの肩を抱いた。
ティアナは手首を掴んだままでいるファルケンハインにまた文句を言おうとした。だがその時、周りの空気が変化したように感じた。これ以上は熱気で近づけないというほど近くにいたティアナだが、その熱に焼かれた空気がサッと冷えていくのを感じたのだ。
冷えるといっても勿論寒くなるなどという劇的な変化ではなく、その場の温度が下がったように感じたのである。崩れ落ちても火勢自体は衰えるどころか、より炎が高くあがっているくらいだ。だから温度の低下には違和感があった。
「大丈夫だよ、ティアナ。もう少しだけ様子を見ていよう」
ハロウィンがティアナにそう言うと、珍しく視線を外さずに小さくうなずいてみせた。ルネは大丈夫……そういう自信があるということのようだった。
ハロウィンのその態度で、ティアナはある事実を思い出していた。
ルネ・ルーは水のエレメンタル。
(しかし、エレメンタルだから大丈夫だというのか? この状況でも? いや、火に飛び込んだのはルネだけではない。奇妙な行動をとっていたあの黒い目の子供はどうなのだ?)
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