第五話 蒸気亭 5/9

 リーゼの反応は、リリアの期待していた通りであった。しかし、リリアはゆっくりと首を振った。

「ええ。でもルルデ・フィリスティアードであるはずがない……」

 独り言のようなリリアの言葉を聞いたリーゼは、何も言わずに目を伏せた。だが、すぐに顔をあげ、再度エルデに視線を向けた。

「でも、似ている……似すぎているわね」

 リリアは同じく独り言のようにそうつぶやくと、エルデの表情を追った。

「ルルデ・フィリスティアードというと、まさか……」

「シエナ・フィリスティアードの弟の?」

「アクラムで司令が倒したという、あの?」

 アトルとファルケンハインがリリアにいぶかしげに訪ねた。

「ええ」

「でも、フィリスティアード弟は司令自身の口で焼け死んだと報告されましたよね」

 金髪の若いデュナン、アトルは、軽く抗議が混ざったような調子でそう言った。

「他人の空似というやつでしょう」

 大柄な金髪のアルヴ、ファルケンハインがそれに続く。

「私もそう思いたいのです。けれど、他人の空似と片付けるには……」

「アプリリアージェの、言う、とおり。似すぎている……彼は……あまりに。」

 最後の言葉は、その場にいた全員に向けて発した、リーゼの精霊会話だった。

 アプリリアージェとはリリアの本名である。

 彼女はリーゼの言葉を受けてうなずいた。

「憶測を巡らせていても仕方ありません。ここは少し様子をみましょう。あの子が私とリーゼを見て何らかの反応をしたら、ルルデ・フィリスティアード本人と見ていいでしょう」

「まさか。確かに黒い髪と瞳は珍しい特徴に違いありませんがねぇ」

「私もまさかとは思います。そもそもあのような状況下で人間が生きていられるとは思いませんが、何か私たちにはわからないからくりがあって逃れたのかもしれません。そう思わないと辻褄が合わないほど、彼はそっくりなのです」

「レイン副司令の言うように、それでも他人のそら似という線は?」

「くどいですよ、アトラック・スリーズ。そう思えないからこそ動揺しているんです」

 アトラック・スリーズとはアトルの本名である。同様にファル……ファルケンハインの族名はレインと言う。

 アプリリアージェはアトラックに向けてもう一言だけ言葉を発したが、それはかなり声を抑えたものだった。


「それともう一つ。何度も言いますが、司令とか副司令という言い方は」

「失礼いたしました、我がリリアお嬢様」

 アトラックがアプリリアージェの言葉を遮るように恭しく礼をしてみせた。

 ファルケンハインは小さなため息をついた後につぶやいた。

「俺はその不毛なやりとりを、もう何千回となく聞いている気がするんだが……」

 ファルケンハインの揶揄にアトラックはバツが悪そうに癖のある金髪で覆われた頭をかいた。

「何千回はさすがに言いすぎでしょ?」


「いいか諸君! それじゃ、始めるぞ」

 アトラックに一言嫌みを言おうとしたファルケンハインの出鼻をくじくように、店の主人であるルドルフの野太い大声が店内に響き渡った。

 彼はテーブルに置かれた青い砂が入った砂時計を取り上げると店内の観客によく見えるように掲げ、それをゆっくりと逆さにして見せた後で、トンという音とともにテーブルに置いた。

 それが開始の合図であった。

 ひときわ大きな歓声が上がり、店内の興奮はまさに最高潮に達した。


[さて]

『かわるか?』

[いや、こういうのはコツがあるんや]

『コツって?』

[知ってのとおり、汗と鼻水が大量に出るんや。こればっかりは摂取成分に体が反応する事によって生じる生理現象やからどうにもならへん。お前さんも鼻水と汗を鼻から同時に垂らしまくる姿をこの大勢の観客の前にさらしたくないやろ?]

『ああ、コツってそっちのほうか』

[そや]


 エルデはいきなり食べ始めるのではなく、まずは上着を脱いだ。

 革の付属がついたウンディーネ風の上着をとると、上半身は袖のない黒いシャツ一枚の姿になった。その姿に挑戦者としての気合いを感じたのか、観衆は「おおっ」とどよめいた。もっともエルデにしてみれば、上着を着たままでは食べにくくて暑くなるから、というのが脱いだ理由であった。とはいえそれは観客の興奮を引き出す演出の一つにはなったようだ。期待に満ちた口笛が飛び交う。

 エルデはそれには一切反応せずに、落ち着いた態度で今度は荷物から手ぬぐいを取り出して皿の脇に置いた。


[汗は思いっきり出るからなあ]

『激辛だったら鼻水も思いっきり出そうだな』

[ついでに涙も出る]

『聞いてると干涸らびそうだな』

[アホやな。そやから水を飲むんやん]

『なるほど』


「おいおい、早く食わねえと時間がなくなるぜ、坊や」

「いや、ものすごい汗をかくからな、ああいう準備は正解だ。落ち着いてやがる。ヤツは若いが、そうとう場数を踏んでるな。かなりの実力者と見たぞ」

「激辛メニュー荒らしの有名人なんじゃないのか?」

「こりゃ、意外に期待できるかもな」

「だから、その辺の激辛メニューとここの猛毒とを比べるのは間違ってるって」

「そうそう、そういう腕に覚えのあるヤツが鼻水と涙を垂れ流しながら己の未熟さを呪いつつ、惨めに降参するのを俺は数え切れないくらい見てきたぜ」

 観客は口々に言いたいことを言いながらも、エルデの一挙一動に視線が釘付けであった。

[ほな、そろそろいくで]

 エルデはスプーンを手に取ると、期待に胸を高鳴らせた大勢の観客が見守る中、ついに最初の一口に取り掛かった。ルドルフはそれをそばで腕組みをしてニヤニヤしながら見つめていた。実のところ、一番興奮していたのはルドルフかもしれなかった。


 いよいよとなると、今度はびっくりするほど静まりかえった。

 突然訪れた静寂の中、何十個もの瞳に見つめられながらも臆することなく、極めて落ち着き払った態度のまま、エルデはついにスプーンを手にとり、スッとシチューをすくった。

 息を呑む観客の視線をよそに、エルデは何のためらいもなく流れるような動作でシチューを口に運ぶと、表情一つ変えずにあっさり飲み込んで見せた。

「おおっ!」

 同時に店内にどよめきが走った。

 エルデはその後も無表情のままで間断なく次々にスプーンでシチューを口に運び、肉や野菜はナイフとフォークで行儀良く小さく切り分けながら食べ進んで行った。さらには途中で横に置かれたパンをちぎり、つまりは全体的に余裕を見せつけるように事を進めていった。

 それは激辛メニューに挑むがむしゃらな挑戦者というよりは、誰の目から見てもかなり上品な作法で夕食を進めている育ちのいい少年と言った風情であった。


 予想通り途中から大量に噴出してきた汗と鼻水と涙を脇に置いた手ぬぐいでこれまた品良く拭いながらも、エイル、いやエルデは着々と大盛りのシチューを胃に落とし込んでいった。

 そしてシチューが残り半分を切ったあたりで、ルドルフのニヤニヤ笑いが消えた。

 同時に客の声援もそのあたりで声の音量が落ちはじめ、残り三分の一を切る頃になると、観客は皆固唾を呑み、またもや静寂が訪れた。

 そして店内の全員が、ただエルデが淡々と食事をする姿を見守るだけになっていた。


「ごちそうさま」

 女性風の所作ではあったが、上品に最後のパンで大皿のシチューを拭って口に入れ、その手で水差しから注いだ二杯目の水が入ったコップを口元に運び、コクコクと音を立てながら流し込むようにして一気に飲み干すと、エルデは横に立つルドルフにそう言って軽く目配せをして見せた。見れば砂時計にはまだ青い砂が半分ほど残っていた。

「そんでもって二泊の宿代と宿泊中の食事代も、ごっそさん」

 あっけにとられているルドルフに向け、エルデはそう続けた。

 その言葉が合図になり、静寂の店内に爆発的な歓声が沸きあがった。

「やりやがったぜ!」

「ぼうず、お前はすげええええ!」

「俺、生きてるうちに成功する奴をこの目で見られるとは思わなかったぜ」

「大げさだな、おい」

「いや、こいつは本当に快挙じゃよ」

「若いの、お前さんはまさしく四始祖に続く英雄だぜ」

「一口しか食べられずに無念のまま死んだ俺の爺さんにお前さんの勇姿を見せたかったぜ」

「ウソつけ、お前の爺さんはまだピンピンしてるじゃないか!」

「今のルドルフのほえ面をランダールの全員に是非見せたいぜえええ」

「ちげえねえ」

 ルドルフは放心したように青ざめた顔でエルデを見た。

「何ならおかわりしてみせようか? その代わり今度は十泊分くらいタダにしてもらわなくちゃな」

 エルデがニヤリと笑ってそういうと、ようやく我に返った店の主人は、信じられないと言った表情でテーブルの上に置かれたシチュー皿に少し残っていた赤黒いシチューを指ですくい、口に入れた。

「うおおおおおおっ! 辛いというか、痛いっ! 誰かビールをくれええええ」

 そういいながら厨房の中に走り込むルドルフの巨体を見て、店内にまたもや爆笑が起こった。

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