第一話 赤い瞳 2/6
場所はサラマンダ大陸の北部高地。若者は急峻な谷あいの街道を一人で歩いていた。二つの月がそれぞれに作り出す二人の影を従えて。
特に急ぐ旅ではないのだろう。若者の歩みはゆっくりとしたものであった。
アルヴィンやダークアルヴにしてはやや大柄だが、アルヴにしては小柄である。つまりデュナンであろうか。とはいえ身長はデュナンの成人の平均より低く見える。体つきを見るとまだ青年と呼べる程のたくましさがみられないようである。とはいえ子供と言うには無理がある年齢、おそらく成人直後、つまり十六、七歳であろう。
月明かりに浮かび上がった若者を克明に観察すると、彼をデュナンと呼ぶには奇妙な点が二つあった。むしろその二つは若者の大きな外見的な特徴と言っていいだろう。一つはデュナンには極めて珍しい黒い髪を持っていることであった。黒はダークアルヴにならば時折見られる髪の色だが、デュナンとしてはまずありえない。
[二つの月が結構近づいてきたなぁ]
若者の心の中で、そうはっきりと声がした。しかしそれは彼自身の独り言とは少し違っていた。
若者の外観のもう一つの大きな特徴は、その瞳の色である。空を見上げる彼の、双月が映る瞳の色がそれだった。
茶色ではなく、灰色でもない。ましてや青くも緑でも鳶色でもなく、その色は髪と同じ黒だった。黒い髪はともかく、黒い瞳はここ、ファランドールでは本当に珍しいものだ。
瞳髪黒色どうはつこくしき。
ファランドールでは彼のような外見の者をこう呼ぶ。
あるいは「ピクシィ」と。
『なあ、おい?』
今度は心の中でさっきとは違う声がした。そしてこの声こそがその小柄な旅人自身の心の声だった。
[ん、なんや?]
心の声の呼びかけに応えて、先ほどのもう一つの声が答えた。
『あの二つの月ってさ、ぴったり重なったりする事ってあるのか?』
そう。若者の頭の中では二つの声が響き合う。それは黒髪の若者にとってはもはや日常であり、ごく自然な会話であった。
[するする。場所にもよるけど、そやな、この辺やったら来年には綺麗に一つに重なるところが見えるはずやで]
『そうか。そういうのはなんて言うんだ? やっぱり「皆既月食」っていうのか。あ、でも月食っていうのは月に地球の影が映るんだからちょっと違うのか』
独り言のように心の中で呟く若者の声にもう一つの声が応える。
[地球?]
『あ、いや。オレの世界じゃ自分たちの居る天体をそう呼ぶんだ。ここの人間が「ファランドール」って言ってるものが、オレ達の「地球」ってこと』
[そうか。皆既月食はしらんけど、ただの月食ならこっちでもあるで。でも月食って地味やからなあ」
『地味?』
[地味やろ? 月の一部が黒くなるだけやもん]
『なるほど。こっちは月がかなりでっかいんだったな。地球だと自分達のいる地球の影がほぼピッタリ重なって黒い月になるんだ』
[ほう]
『でもまあ、あのでっかい二つの月がピッタリ重なるっていうのは確かに派手かもな』
[合わせ月]
『え?』
[ファランドールでは二つの満月がぴったり完全に重なる天体現象を「合わせ月」って言うてるけどな。これがなかなか希な現象で、大体千年に一度くらいしか見られへんらしいな。それがさっき言うたように、この辺やと来年がその年なんや。ちなみに一部だけとか、大きさが微妙に違って重なるのは「重ね月」や。こっちはそこそこ頻繁に起こる]
『「合わせ月」と「重ね月」か。どっちもマーヤにも見せてやりたいな』
[それはちょっとムリかもな。まあ、戻れたら時の土産話にはなるやろけど、話してもきっと夢の中の話だと思われて終いやろな]
『わかってるよ。そうだな、むしろ夢の話だっていえば笑って聞き入ってくれるかもしれないな』
[地方によって風習とかが違うんやろけど、月にまつわる祭礼は各地にあって、中でも盛んなんは二つの月が両方ともに満月になる二日前から三日間が「双望月祭ならびもちづきさい」、別名「精霊祭」っちゅう期間で、その時期には各地でいろんな月祭が行われてるはずや]
『二つの月が同時に満月になるのも珍しい現象なのか?』
若者は歩みを緩めずに頭上にかかった月を見上げた。若者の故郷では決して見ることのない双月がかかる夜空。だがもう、彼にとってそれは見慣れた風景だと感じてきていた。
[双び望月はざっと年に四回やな。現在使われている暦、星歴の前は月歴いうてあの二つの月の動きを暦の単位にしてたくらいやから周期はほぼ一定で正確や。微妙な月の周期のズレが発見された四千年前くらいに、変異がより少ない基準星「天心星」の動きから割り出した「星歴」に変わってるけどな。天心星は昼星って言われることの方が多いけどな]
『太陽の事だな……。なるほど、ここの「星歴」っていうのはそういうものか』
[どうした? こっちに来て結構経つのにおまえが天体のことに興味を示すなんてはじめてやな]
『いや、なんとなくそんな心境になっただけだ。というか、月を眺めてきれいだななんて思えるほどこの世界になじんでしまったってことだろうな』
[ふーん。まあええわ]
『で、その双月に因んだ祭りっていうのは?』
[祭りの内容についてまでは詳しくは知らへんけど、特にここ、サラマンダ大陸では盛大にやるようやな]
『「ようやな」、か。相変わらずお前の言うことって曖昧だな』
[書物を読んで知った知識やからそういう言い方になるんはしゃあないやろ。ちゃんと見た訳やないんやから。知ってのとおり俺は世俗に交わって暮らした時間が短いさかい、そういうのはしょせん知識の範疇でしかない、言うことや]
『ふん。で、その別名「精霊祭」ってのは、「精霊」って言う名前が付くくらいだから、満月になると精霊との間には何か関係あるって事か?』
[満月の時期は一部の精霊の力、いわゆる大気中のエーテルが普段より濃く強くなるんや。活性化すると言うてもええのかな。で、「月」に属するエーテルの力が上がる]
『こんどは「ようやな」じゃないんだな』
【そっちは身をもって検証済みやからな】
『なるほど、そりゃそうか』
[満月が二つ重なる双望月の頃になると精霊の力は概算で五割増しっちゅう感じや]
『そりゃ豪華な話だな』
[そやな。月に属する精霊を使うルーナーやフェアリーが大いに輝く時期やな]
『月に属する精霊?』
[具体的には大地のフェアリーと水のフェアリーがそうやな。反対に炎属性と風属性は昼星、つまり天心星に属する『天属性』精霊や。昼星系のフェアリーが多いシルフィード王国なんかは月祭もこの辺とは規模が違うはずや。御利益が少ないからな]
『ふーん。因果関係がオレにはいまいちわからないけど、まあどうでもいいや』
二人の会話が一人の心の中で繰り広げられている様は、当然外からはまったくわからない。当の本人は単に無言だからだ。もっともそれこそがこの若い旅人の最大の秘密であった。
『どうでもいいが、腹が減った』
[考えんほうがええで。余計辛なるだけや]
『そういうけどな、グチのひとつも言わないとやってられない気分だ』
[いつもおまえさんが言うてる、何やったっけ?『剣士は食べへんでも死なへんで』とか、何たら、とちゃうんか?]
『いや、剣士だろうが商人だろうが食べなきゃ普通に死ぬからな? それを言うなら「武士は食わねど高楊枝」だ。でもあれは要するに見栄っ張りのやせ我慢を美辞麗句にして揶揄っているだけさ。どう考えても自嘲気味な情けない話としかオレは思えない』
[いつもと言うてることが違うやん]
『黙れ。建前と本音という言葉があるだろ。だからそこは突っ込むな。それよりそろそろ眠って体力を温存しておく方がいいんじゃないのか?』
[さっきも言うた通り、この長い谷道は谷底の一本道で、迂回もでけへんし隠れる場所もない。さらに俺達には結界を張るだけの体力もない。このご時世、この辺は無法地帯みたいなもんで、反政府のゲリラや山賊みたいな連中がうじゃうじゃおるから、奴らにとったらある意味格好の狩り場や。見つかったらいろいろ面倒やし夜中に一気に通り過ぎるに限るんや。だいたい]
『だいたい?』
[大事な食料を無くしたんはおまえさんの不注意やろ?]
『オレのせいじゃない。スカルモールドが引きちぎったんだ』
[そのスカルモールドを最初の一撃で決められへんかったんはおまえさんの攻撃が中途半端やったからやろ? 相手をナメ過ぎや。今回おまえさんが助かったのはまたしても俺のルーンのおかげなんやで]
『うるさい。だから反省して、こうやって言われたとおり休まず歩いてるだろ。そもそもオレはこの「ファランドール」の知識がないんだからな。スカルモールドにも種類がいろいろあるという情報を前もってオレに与えていなかったお前の失策でもあるだろ。さらに言えば、だ。基本的にお前の言うことをオレはいつも尊重してるはずだ。だからつまらない中傷はよせ』
そう心の中でしゃべって、大きくため息をついた時だった。
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