第一話 赤い瞳 1/6
妹が居る。
歳は一つ下だ。
名前はマーヤ。
本当の名前はマアヤだが、みんなマーヤとしか発音しない。
漢字で書くとわかりやすい。「真綾」だ。
いい名前だと思うけど、実はたいした由来などはない。父親の名前である「真まこと」と母親の名前である「綾あや」をつなげただけだ。
知ってしまえば実に単純明快で、「我々二人の子供です」と世間に向けて発表しているかのような気恥ずかしさに満ちた名前だ。もっとも名付けの意味の分かりやすさとしてはほぼ完璧な名前と言っていいとは思う。
そういうわけだから、それ以上の意味だとかこじつけとか、つまりはたいした由来はない。
そんな背景はどうあれマーヤ本人は自分の名前をいたく気に入っている。つまり結果としては、いや両親としては子供に恨まれることのない良い名前をつけたと言えるのだろう。
オレはマーヤ自身が自分の名前を気に入っているかどうかの方が重要だと思うから、つまりはいい名前だと思っているというわけだ。
幼い頃から切った記憶がないから、マーヤの髪はとても長い。腰のあたりまである。真っ直ぐに切りそろえた前髪の間から形のいい眉と聡明そうな額が時折のぞく。
黒目がちで切れ長の瞳ですましていると、ちょっとその歳からは想像出来ないほど大人びて見える。兄であるはずのオレが見てもマーヤの方が年上なんじゃないかとよく錯覚してしまう。そうそう、目を伏せるとずいぶんとまつげが長いのがよくわかる。
何が言いたいのかと言うと、オレとマーヤは全然似ていない兄妹だということだ。
父さん似と言われる俺とは全く違う顔を持つ妹。
マーヤはたぶん母さん似の美人で……。
すましていると冷たそうな雰囲気で、ちょっと取っつきにくそうな感じがするんだけど、笑うととたんに幼くて可愛い感じになって……。
もちろんオレはそんなマーヤの笑顔が大好きで……。
そしてそんなマーヤはいつも明るくて元気で……と言いたいところだが、明るいかどうかはともかく少なくとも元気な女の子ではなかった。
一度や二度聞いたくらいではまず覚えられないような長く難しい名前の先天性の病気を患っていて、医者はまだ特効薬はないと言って目を伏せるだけだ。
マーヤは生まれた時からずっと病院で暮らしていた。病院が家で病室が自分の部屋だ。
基本的には一人暮らし。しかもかなり若い頃からの一人暮らしと言えばうらやましがる奴もいるだろうけれど、もちろん現実はそうじゃない。病室のベッドでずっと寝て暮らす事をうらやましがる奴にまともなヤツはいないに違いない。
だいたいマーヤには友達が居ない。いや、同じように入院している患者同士の友人は何人もできたろう。けれどその友人はいつか必ず去っていく。
ある者は病気を治して家族の待つ家へ。そしてある者は誰もがいつかは帰り着く場所へ一足先に旅立っていく。
マーヤを一人残して。
だからマーヤにとっての一人暮らしは、いつも誰かと別れる為の生活と言っていい。それは寂しくて悲しいだけだ。そしてマーヤだけでなく、そんなマーヤを見ることになるオレにとっても、それは同様だった。
でも、マーヤにも一人だけどこにも行かない友達がいる。それは歳が近い男友達、つまり、オレだ。
だからマーヤは毎日オレが見舞いに行くのを楽しみに待っている。オレが話すつまらない日常の話を聞くが好きだった。
多くの、でも似たように立ち並ぶビルと、そして少しの空。小さな病室の窓から見えるその風景がマーヤの世界の全てだから、マーヤはそれ以外の世界が確かに存在している事をオレを通して感じたいのだろう。
オレと言えばそんな妹が嬉しそうな顔をしているのを見るのが何よりの楽しみで、時間が少しでも空けば彼女のところに通っていた。
もちろん小学校裏にある資材置き場に捨てられていた猫の飼い主が見つかった事や、病院に来る途中にある古い洋館のエニシダの花が咲き出したこと。毎年たくさんの実を付ける例の山ザクラのつぼみが色付きだしたことなど、マーヤに話してやれるちょっとした「事件」や「日常の変化」を仕入れる事にも怠りはなかった。
ある日、マーヤの容態が変わった。
高い熱が出て、何日も昏睡状態が続いたのだ。
それまでも不定期に発作はあったが、その時はこれまでにない高熱が出て、長い時間マーヤは生死の境をさまよった。
オレ達家族の願いがマーヤの生の扉を叩き続けたことが功を奏したのか、しばらくするとようやく熱も下がりはじめ、意識が回復した。その後一週間もすると普段通りに生活できるまで回復することができた。
オレはにっこり笑う妹の笑顔を見て胸をなでおろした。
だが、安堵する俺たちに向かって医者は険しい顔でこう言った。
「そろそろ決心していただかなければなりません」
と。
オレ達は、その言葉が意味するところを痛い程理解していた。
マーヤには思い切った大きな手術がどうしても必要なのだ。
それは今までにも何度か提案されて、その都度先送りにしていた手術だった。でも、これがその手術を受ける最後の機会だろうと医者は告げた。
「こんな発作がつづいて体力が衰えてからでは手術に耐えられません」
そして脅すようにこう付け加えるのだ
「このままだと成人式を迎えることはできないでしょう」
と。
けれど、妹は手術を受けるのを嫌がった。
なぜならその手術は成功の可能性が極めて低いものだったからだ。
もちろん手術をすれば助かるかもしれない。
いや、違う。
妹は手術をしなければ助からないのだ。
けれど、失敗すれば妹の時間はそこで止まる。
マーヤはそれを怖れていた。
もちろん、オレだって怖くて仕方ない。そのことを考えると今でもこうして鳥肌が立つくらいだ。
だからオレはマーヤを説得はしなかった。
いや、できなかった。
それでも、当たり前だけど、オレはマーヤに生きていてほしかった。一年や半年ではなく、それからもずっと。
そう、ずっとだ。
だからそれだけを伝えた。その話をする時、オレは泣いていたと思う。情けない涙声で、でも何度も繰り返し、同じ言葉を伝えた。
一緒に歳をとろう、と。
オレだけが歳をとって、若いままのマーヤの写真を眺めるなんて、オレには絶対耐えられないだろうと。
マーヤは悩んだ。
悩んで悩んで、そしてついに手術を受ける決心をした。
そんなマーヤとオレは一つの約束をした。
手術の日はずっとそばにいると。
そして待っていると。マーヤが目を開けるのを信じて、待っていると。
麻酔から醒めて目を覚ますまで絶対に側を離れないと。
だから……。
だから、オレはこんな所にいるわけにはいかない。
早くフォウに戻らなければならない。
約束をしたんだ。
妹と。
マーヤと。
手術がいつになるのか……それはわからないけれど、出来るだけ早く。
出来るだけ急いで。
なぜならオレがいなければ、きっとマーヤは手術を拒むだろう。
約束だから。
祈りであるはずの約束が、このままではマーヤにとって呪いになってしまう。
だから……。
[おい]
『……』
[おい、また考え事か? まあ、どうせ妹の事やろけど]
心の中で本人とは違う声が呼びかけてきた。
『ああ、悪い。ぼーっとしてた』
若者はその声に応える。
[ん……いや。何でもない。兄が妹のことを考えて悪い理屈はないしな]
『そうか。うん……そうだな』
[もっともお前さんが、普通よりかなり甘~いお兄ちゃんなんは間違いのないところやけどな]
『ふん、言ってろ』
若者は何かに呼ばれたような気がして夜空に顔を向けた。南の空には月が二つ、並ぶようにして輝いている。一つは明るく、そしてもう一つはやや暗いが、ともに大きさは同じ程度である。
月の輝きに気圧されて星々の輝きが影を潜めた夜であったが、夜半にもかかわらず谷間の街道を行く旅人にとっては、歩を進める助けとなっていた。
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