第十話 ルルデ・フィリスティアード 4/5

「フィリスティアード殿に尋ねる。今回の襲撃は我々をシルフィード王国の海軍部隊と知った上での戦闘作戦か?」

 アプリリアージェのこの言葉で、シエナはルルデがさっさと殺されなかった訳を知った。目標誤認による事故の戦闘だとすでに相手は見切っていたということなのだ。戦闘開始直後に襲撃した方が混乱状態に陥ったのだ。おかしいと思われても当然だった。


「言い訳にしかならんが、ドライアド軍と誤認した」

「やはりな。もっとも、そうは言ってもどちらにしろ正当性のある戦闘ではないがな」

「それについては反論しない」

「まあいい。隊長の誤認で部隊を全滅させたという事実があるだけだ」

「責任は私にある。部下達には寛大な措置を願いたい」

「先走るな。今はまだお前達の処遇の話をする段階ではない」

 このときアプリリアージェがミスを犯したとするならば、この時点で停戦の合図を相手に指示せず、自らも行わなかった事につきる。だがそれも無理からぬ事ではあった。なぜなら隊長の降伏宣言にもかかわらず、ルルデと呼ばれる目の前の少年兵はいまだ剣を構えたままで、その殺気は全く衰えていなかったからである。彼女の認識は交渉はしているがまだ戦闘中という事だったのだ。

 アプリリアージェの言い回しでその事にすぐに気づいたシエナは、即座に弟に声をかけた。

「剣を捨てろ、ルルデ」

 だが、弟は兄の命令に従わなかった。

「いやだ」

 シエナはいい方を変える事にした。弟の性格はよく知っているからだ。

「黙れ! これは隊長としての命令だ」

「くそ」

 ルルデは漸く剣を地面に投げ出した。そしてそのまま両膝からその場に崩れるように座り込むと、拳を握り締めて思いきり地面を叩いた。

「ばかやろう! なんでシルフィード軍がこんな所にいるんだよ!!」

 その両頬には、悔し涙で何本も筋ができていた。


 本来、シエナ達の今回の作戦は武器補給の為の簡単な小隊襲撃のはずだったのだ。だが、その作戦は当初の思惑とは違う結果を伴ってあっけなく終わった。ルルデの部隊は自らが仕掛けた戦いにあっという間に敗れただけでなく壊滅状態に陥った。しかも無条件降伏というおまけ付きである。それはフィリスティアード隊がこの場で消滅することを意味しており、生き残った者は補給部隊を含め、これから捕虜として扱われることになるのである。

 ルルデはしかし敗北が悔しいのではなかった。剣を振るうことなく、それを放棄せざるを得なかったことが何より悔しかった。

 相手が本来の敵ではない事もルルデのやり場のない怒りを助長していた。ルルデは戦乱の中で生きている誇り高い兵士が皆そうであるように、戦って死ぬことは少しも怖いとは思っていなかった。彼は若かったが守るべき信念を持っていた。そして守るべき人があり、そのために命を投げ出す覚悟が既にあった。

 負けることではなく、もう戦うことができなくなったことが何より恐ろしかったのだ。


 ルルデは溢れようとする気持ちをなんとか抑え込むと左の二の腕で乱暴に涙を拭った。そして唇を噛みながら気持を落ち着かせると、改めて眼前にぽつんと立つ小柄な少年兵を睨んだ。敵の前でこれ以上無様な格好を見ぬ事が自分の出来る最善であると決めたのだ。

 アルヴィンの少年兵はようやく弓の構えを解くと、顔を隠すかのようにマントのフードを深く被り顔を覆った。


 メビウスはルルデが剣を手放したのを見届けると、その場に崩れるように倒れ込んだ。驚いたのはシエナである。

「メビウス!」

 とっさにかけた声に反応はなかった。怪我のせいか、緊張が途切れたとたん失神したようだった。膝をつき抱き起こそうとメビウスの肩の後ろに手を入れたシエナは、手にまとわりつく温かいぬめりに驚いた。メビウスの右肩の傷はシエナが考えていたよりも重傷だったのだ。むしろ今までメビウスが意識を保っていたのが奇跡的だったのかもしれない。

「メビウス!」

 何を置いても手当が必要だと思われた。

 一刻を争う状態だと判断したシエナは、敵や味方という価値観をかなぐり捨てた。弟の命の代償に腹心の部下を、いや無二の親友を差し出すわけにはいかなかった。

「頼む!」

 眼下にいるアプリリアージェに向かってシエナはそう叫んだ。そしてその場で立ち上がった瞬間、彼を襲った一連の悲劇の幕が下りる音がした。


 それはヒュウっという風を切る音で、シエナがその音を認識した時には何かがのどに当たる軽い衝撃を感じていた。そして、そこで彼の感覚は停止した。

 それが、シエナ・フィリスティアードの最期であった。

 千日戦争時代、サラマンダ王国軍の名将として名を馳せた若き将校、シエナ・フィリスティアード少佐は、敗戦後もその事実を受け入れることを拒み、占領軍に下る事はなかった。結果として記録的にはゲリラ組織の一首領として認識され、その後、決して長くはないその生を終えた。

 それを戦争という歴史の大きなうねりの中で無数に生まれる取るに足らないありふれた悲劇の一つだと言うのはたやすい。しかし、時に小さなほころびが大事に至ることがあるように、シエナ・フィリスティアードの死が歴史という世界を綴る根幹の物語を突然大きく転換させる引き金になった可能性があることは記憶にとどめておくべきかもしれない


 今回の幕を下ろしたのは、立場上シエナ達の敵となったル=キリアの二人の副官のうち『ドール』とは違うもう一人の副官であった。名をファルケンハイン・レインという。彼によって立て続けに放たれた二本の矢は、シエナの咽とこめかみに、正確に深く突き刺さっていた。死因は間違いなくその矢によるもので、おそらく即死であろうと思われた。なぜならシエナ・フィリスティアードは声もなく崖際で立ったままで絶命したからである。

 数秒、いや十秒ほど経ったろうか。自立できなくなった体がようやく傾きはじめ、引力に任せてそのまま崖の下へ落下していった。この時すでに意識のなかったメビウスは、上官の最期を見届ける事は叶わなかった。そして彼は生涯その事を悔やむ事になるのだろう。


 風を切る矢音に続き、それが何らかの的に突き刺さった音を認めたアプリリアージェはルルデへ向けていた矢を下ろすと、初めて後ろを振り返り、音がした崖の上に目をやった。それはまさにシエナが崖から落下するところだった。

(しまった!)

 アプリリアージェは今まさに矢を納め、急ぎ撤収の合図を送ろうと考えたところだったのだ。だが、遅きに失した。

 判断、いやほんの数秒の指示の遅れが、必要のない悲劇を生む事を、彼女はよく知っているはずであった。

 部下の誰かがシエナを敵と認めて射たものだとアプリリアージェは理解していた。その部下を褒めこそすれ責める理由など一つもない。


 一方で『ドール』が事態を確認したのは、崖の上を正面にしていたためアプリリアージェよりも少し早かった。副官である彼は悲劇的な事態を察知した瞬間には矢筒から信号用の音が鳴る矢「調べ矢」を選ぶと、それを間髪を容れず空高く放った。一連の的確な判断と冷静な対処はル=キリアの副官を名乗るにふさわしいと言えた。だがそれは少年然とした姿とは相反するものであろう。

 ともあれフィリスティアード隊にとっては遅きに失した感のある停戦の合図が、悲しくあたりに響くことになった。

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