第二話 カレナドリィ・ノイエ 1/8
「てくださいな」
遠くの方から声がした。
どうにもぼんやりとして輪郭のない……
でも、どこかで聞いたことがあるような……
それは声のする方角さえはっきりとしない不思議な声だった。
「きてください」
どうやら声の主は若い女の声のようだ。
ただ、ふわふわして抑揚のない……この世のものとはとても思えない……木霊がかかったような不思議な声だった。
そう、どこか遠くの方で幾人もの同じ声をした少女が一斉に呼びかけているような……。
いや。
違う。
これは現実だ。
「起きてください、大丈夫ですか? それとも駄目そうですか?」
その声は本当にごく近くから……具体的にはエイルの頭上、いや相対的には目の前から聞こえてきた。
間違いなく声の主はこの世のものだ。
それはもうはっきりとわかった。
その声の主はこの世のもので、それも人間の、若い女の声だった。
思考がまとまるよりも前に体が動いた。
エイルはとっさに飛び起きると声のする相手に対して体術の構えで身構えてみせた。
「あら」
エイルをその急な行動をびっくりしたような目で見つめた少女だが、すぐににっこりと笑って見せた。
「でも良かった、目が覚めて」
『しまった』
[しっかりしーや]
『わかってる。でもオレとしたことが人の気配にすら気づかず眠り込んでいたのか』
[このていたらく……眠気に負けてぶっ倒れたって訳やね?]
『眠気じゃなくて、極度の疲労だ。あんなの生まれて初めてだぞ』
[とりあえず、お前さんの言い訳大会は後や]
『はあ?』
あまりに深い睡眠だったのだろう。体は本能的に戦闘態勢をとったものの、体が意志の下に忠実に従うどころか、意識とは裏腹にまだほとんどの部分がぼんやりと麻痺したように頼りない。様々な感覚が鈍いまま、なかなか戻ってこなかった。
そんなぼんやりとした網膜になんとか映ったのは、ちょっと驚いた顔で、でもちょっと笑って自分の方を見つめている、長く波打つ豊かな黄色、いやたんぽぽ色の髪を三つ編みにして胸側に垂らした碧眼の若いデュナンの娘だった。
年の頃はエイルと同じか少し上だろうか。逆光線で顔がよくは見えない。癖毛なのだろう。長い髪は大きくうねっていて、三つ編みに編まれた髪にはそうとうのボリュームがあった。
そしてその長く豊かなたんぽぽ色の髪は朝の逆光線で輪郭が透き通るように浮かび上がり、青空を背景にキラキラと輝いているように見えた。
その光景は昔どこかの美術館で見た一枚の絵のような懐かしさで、エイルの心を強く掴んだ。
よく見るとデュナンの娘はその輝くような顔と髪には不釣り合いと言える質素な出で立ちだった。濃いめの青い胸当てのついたツギあてだらけのブカブカの吊りズボンに、襟と袖口が擦り切れた厚手の無地の木綿の白いシャツといった、まるで農作業をする男のような格好だったのだ。
エイルは状況把握をするより先にそのデュナンの娘の事をぼんやりと考えていた。
(この人はきっと穏やかで優しい人なんだろうな)
高原は初秋を迎えていた。
その清々しい空気の中をすうっと通って耳に達する澄んだ声がよりいっそうその娘の持つ印象を爽やかに嵩上げしたのかもしれないが、とりあえずエイルはなんとなくそう思ったのだ。
それに……。
そう、エイルはこのデュナンの娘をどうやら知っている気がしてならなかった。
もちろん知っているはずはないのだ。
エイルはこの地を初めて踏む。
だから少なくともファランドールでこの娘に出会っているとは思えなかった。
(フォウの知り合いの誰かに似ているのか?)
エイルは無意識のうちに自分に問うたが、すぐに我に返った。
『すまん。ちょっとまだ寝ぼけてたみたいだ。……殺気はなさそうだ。えっと、まさかとは思うが、ひょっとしてお前の知り合いか何かか?』
エイルは心で問うた。
自分の知り合いでなければ、もう一人の意識の持ち主の知り合いかもしれないと考えたのだ。その印象を心の奥で共有した可能性があった。
[いや。全っ然知らん人やなあ……たぶん]
心の中でエイルの問いにもう一人の意識が答えた。
『たぶんって、頼りないな、おい』
エイルはいっこうに本格的な活動を始めようとしない脳にムチを入れ直近の記憶を辿り、現状の認識を急いだ。なぜ、こういった事態になったのかを。
ただ、視線はたんぽぽ色の髪の娘から外さない。いや、むしろ外せないと言った方が正確だった。その娘を見れば見るほど既視感が強まってくるからだ。
(確か、そうだ。あの後、とにかく安全な場所で仮眠しようとして……とりあえずは目的地の町の方向に真っ直ぐ向かって道のない山中の藪をこいで……ちょっと開けたところに出たことまでは覚えてるな)
そしてその後の記憶が全くなかった。
おそらく空腹と疲労と睡魔に負けて道ばたで意識を失ったというところであろう。
『でも、この子をどこで見た?オレは何処で遭った?』
エイルの中ではすでにこの娘とかつて出会ったことは確信にかわっていた。
懐かしいような、でも、それでいてあやふやなような。
「私は怪しいものではありません。警戒しなくても大丈夫ですよ」
自分を睨み付けたまま何も言わない若者に、娘は少し微笑んで見せた。
「大丈夫ですか?死んだように倒れていたので、どこか具合でも悪いのかと思って棒でつつく前に声をかけたのですが」
「棒って……」
言われてふと見れば、そばに精杖が放り出されたままだった。
(あれは棒じゃねえよ)
エイルの熟睡状態にあった脳細胞はようやく状況を飲み込む事に成功し、それなりに活動を開始し始めた。
おそらく娘の言う通り、いや、ほぼ間違いなく言うとおりだろうと確信することに対して一切の異論はないと判断するところまでは。
確かにエイルは目の前にいる金髪碧眼の典型的なデュナンの娘には相手に危害を加えようというような雰囲気は感じなかった。
それよりも何よりも冷静に考えればわかることがある。
そう。その気ならとっくにエイルはこの娘にやられているはずだった。全く気づかずに眠り込んでいたのだから。
それに籐で編んだバスケットを背負ったその娘が、人を殺傷するような武器を携行しているとも思えなかった。
エイルはゆっくり構えを解くと、深いため息をつき、少しバツが悪そうに頭を下げた。
「脅かしてしまったなら、すまない」
「いえ、大丈夫です。それより」
「あいにくとオレは怪我や病気じゃない。ただ、ここで野宿をしていただけだ」
そういうと、ようやく娘から視線を外し、改めてあたりを見渡した。
「野宿って? こんなところで野宿? ここ、往来のど真ん中ですよ?」
タンポポ色の髪を揺らしながらそう言って娘は首をかしげて見せた。
「あ、ああ。そうだな……夜だったから気づかなかった」
どうやら道標の横で眠り込んでいたようだ。娘の言うとおり、そこは三叉路であったが、エイルが寝ていたのは道の「真ん中」というよりはむしろ「道端」というべき場所であった。道標の廻りは下草が生い茂っていて、自然の絨毯さながらに、なかなか快適な寝床であったようだ。その場所は周りにある背の高い木々で適度に風と日差しが遮られていたが、緩やかに過ぎゆく風が木々の葉と枝を揺らし、いくつもの光の図形を道の上に作り出していた。
現状把握ができたエイルは、こんどは自分の姿を吟味した。どうやら服は朝露のせいでまだ少し湿ったままのようだった。
「本当に病気とか怪我で倒れていたわけじゃないんですね?」
急に黙り込んだせいで、娘はさっきより一層心配そうな顔をエイルに向けた。少しのんびりとした話し口調はこの娘の特徴なのだろう。見た目よりも落ち着いた、少し低くて、それでいてすっきりと澄んだ声が耳に心地よい。
『この声にも……覚えがある……気がする』
[気のせいやろ。少なくとも俺には見覚えはないで]
『フォウにいた頃によく似た人と知り合いだったんだろうとは思う。でも』
[でも?]
『何か、少し引っかかるんだ。ただの知り合いじゃないような。よくわからないけど、オレ、ここでこの子に会えて良かったって気分になってるんだ』
[フン。それ以上考えても仕方ないやろ。今のままやとお前さんにちゃんとした記憶が戻ることはないんやから]
『それはわかってる』
[そやったら、考えるだけ時間の無駄や]
『そうかもしれないけど、人の気持ちは簡単には割り切れないと言うこともお前は知っておけ』
[そこまで言うなら、アレか? フォウでは深い仲やったとか?]
『それはまあ、ないだろうな』
[即答やな]
『マーヤの事で頭がいっぱいで、特定の女の子と、その、特別な関係になるとか、そんなことにかまっている余裕なんてないはずだ。たぶん』
[ふん、どうだか]
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