第十話 ルルデ・フィリスティアード 1/5

(生きていてくれたか!)

 シエナは声よりも速く体が動いていた。今聞こえたのは間違いなく、弟ルルデの声だった。

 生きていた。

 身体中の力が抜けてゆくような安堵を感じたがそれは一瞬で、代わりにシエナを襲ったのは感情の全てを塗りつぶしてしまうほどの絶望だった。

 弟は今まさに、件の決して戦ってはならない相手、ル=キリアの兵士と対峙しているではないか。

(逃げろ。相手は特殊な能力を持つ戦闘フェアリーなんだぞ)

 シエナは声にならない声を上げながら崖の縁に駆け寄ると、ルルデの声がした崖下をのぞき込んだ。そこには旧サラマンダ王国正規軍の赤い軍服を凛々しく纏った黒髪の少年が崖を背にして立っていた。彼は一振りの両手剣を高く掲げ、前方の森をにらみ付けているようだった。その赤い軍服の少年こそ、まさしくシエナ・フィリスティアードの弟ルルデだった。

 シエナはルルデの剣先が示す前方を見やった。彼の弟が立っている場所は少し開けた窪地になっており、今のところそこにはルルデの姿しか見当たらない。

 シエナはすぐに眼下の弟に呼びかけようとしたが、その前にルルデが前方の森に向かって再度大声で呼びかけた。

「隠れたところからこそこそと攻撃するのがお前達のやり方なのか? そんなに俺が恐ろしいか? お前達も戦士の端くれなら姿を見せて名乗りを上げろ。そしてここで俺と正々堂々と勝負をしろ!」

 それは味方であるシエナが聞いても全くもって馬鹿げた言い分だった。

 戦争に卑怯も何もない。いや、それ以前に非はシエナ達にあるのだ。相手をよく確認もせずに奇襲を仕掛けたのはシエナ側なのだから。正義だとか正々堂々という言葉を持ち出す事が許されるとしたら、それは相手側の方であろう。彼らは降りかかる火の粉を払おうとしているに過ぎないのだ。

 いや、ルルデとてそんな事は百も承知なのだろう。

 若いが場数を踏んでいるルルデが作戦が全くの失敗に終わった事はすぐに理解したはずである。そしてその相手がかなりの戦闘力を持った集団であることも、次々に耳にする味方の断末魔で証明されていた。

 つまり、まともに戦って勝てる相手でないのはルルデも重々分かっていたのである。

 だが、まともに戦う事すら出来ずに倒れて行った仲間を思うと、自らの奮い立たせ、握りしめた剣を振り下ろす事こそが餞なのだ思っていた。いや、考えるまでもなくもはやそれしか残された道は無いと、ルルデは考えていた。

 せめて一矢、いや一太刀を報いたい。その思いが大きすぎて、若いルルデの頭の中には逃げるという選択肢はまったくなかった。

 その態度からは、恐れずに相手に向かっていく……たとえ恐れてもそれを押さえ込む勇気で敵に対峙する……そんな気概が伺えた。そういう性格だからこそこれまで良き戦士として成長し、ここまで生き残ってこられたのだとも言えよう。そして勿論、その裏付けとなる剣の腕前を有している事は容易に想像出来た。


 相手の底知れぬ戦闘力を前に持ち前の負けん気と勇気を総動員し、恐怖の沼に進み落ちようとした自らの足を踏みとどめる事に成功した優秀な兵士であるルルデは、前方の森に潜むまだ姿を見せぬ敵を睨みつつも彼なりに計算はしていた。

 既に思い知らされている通り、森の中は相手の得意とするところのようだった。何しろ勝手知った庭のような場所であるにも関わらず、為す術もなく蹂躙されたのである。

 閉塞した場所が駄目なのであれば、開けた場所での剣による一騎打ちが活路になるかも知れぬと考えたのである。単純な思考だとルルデ自身も理解していたが、それでも駄目でもともとと思い込むしかなかった。言ってみれば博打のようなものである。文字通り「一か八か」でその開けた場所に誘い込んだのである。

 当然ながら森から狙い撃ちされる可能性は高かった。だが崖を背にすれば空き地を間に挟むことで森からの距離を多少なりとも稼げる。全身の感覚を研ぎすませば、矢の音からでも対応可能だと判断していた。


「俺はルルデ。ルルデ・フィリスティアードだ。サラマンダ王国軍フィリスティアード独立部隊の隊長、シエナ・フィリスティアード少佐の弟だ」

 ルルデの大声はもちろん森まで届いていた。

 しかし、森の中からは何の反応もなかった。

「どうした? 怖じけづいたか」

 さらに叫んで挑発するルルデに、ようやく我に返った兄が崖の上から声をかけた。

「ルルデ!やめろ。撤退だ」

「え?」

 頭上から降ってきた兄の声にルルデは驚き、同時に一瞬だけ瞳に希望の光が宿った。しかしすぐに兄のいる場所が切り立った崖の上だということを理解すると、一瞬でも歓喜した自らの甘さに内心で苦笑した。

「兄さん、よかった。無事だったんだね」

 崖の上に聞こえるように大声でそう呼びかけた。

「撤退だ、ルルデ。逃げろ」

 兄は同じ事を繰り返した。その言葉にルルデは唇を噛んだ。

「駄目だ、兄さん。わかっているだろ? 敵がそこにいるんだ。もう逃げ道はない。兄さんこそ早く撤退して部隊を立て直せよ」

「戦うな。降参しろ。この戦いにはもう意味がない」

 その兄の一言は、ルルデの体を巡る血液を逆流させた。


「意味がないなんて言うなよ!」

 怒号だった。

 シエナの耳を突き抜けるようなその叫びには、やりきれない思いが込められていた。その声は傍らの副官の胸にも響いた。

 隊長が口にしてはならない言葉だと、ルルデは責めているのだ。たとえそれが真実であったとしても。

「仲間が大勢やられたんだぞ。ここで俺が剣を投げ捨てるなんて、そんなこと、できるかよ」

 ルルデは大きく首を振ると、再び視線を前方の森に向けた。

 だがシエナは、そう言われても引かなかった。兄は弟の命に執着したのである。

「バカ野郎、みすみす死んでどうする。それこそ犬死にだ。ここは逃げるんだ、ルルデ」

「ここでオレが死ぬと決めつけてるのか?」

 自分でそう口にしたものの、ルルデ自身、どう考えても勝てる気はしていなかった。

 ルルデの覚悟はシエナにも伝わっていた。むしろ死を自ら選んだとしか思えない弟の様子にシエナは焦った。改めてあたりを見渡すが、しばらくは切り立った崖が続いていて下の窪地に降りられそうなとっかかりは見つからない。ルルデの居るところにたどり着くには森の中を迂回する必要がある。それはつまりル=キリア達のいる森へ再び突入するということに他ならない。

「駄目です、シエナ様」

 逡巡したあげく、思いあまって崖を転がり降りようと決心して体を乗り出したシエナの肩を、メビウスは慌てて背後から掴んだ。

「辛いでしょうが、あなたには役目があります」

「言うな、メビウス」

「いいえ、言わせてもらいます。生き延びて我が軍の体勢を立て直す事、それが隊長であるあなたの役目です」

「ルルデは俺の弟なんだぞ」

 ふりほどこうとするシエナの肩を、メビウスはさらに強い力で拘束した。

「お忘れですか? あなたに弟がいるように、私にも妹がおります」

 その一言がシエナの動きを止めた。

「メビウス」

 シエナは思いだしていた。今日の出陣に際し、いつものように心配そうな顔で手を振っていた栗色の長い髪を持つ、鳶色の瞳の少女の事を。

「下にいる勇者はその可愛い妹の許嫁です。つまりあなたの弟はもう私の弟でもあるんです。ですからお気持ちは痛いほど分かります」

「しかし」

「だからここは一つ私にお任せください。なあに、こう見えても運はいい方です」

 メビウスはそういうとシエナを押し倒し、なんとか着地できそうな位置を吟味するためにルルデのいる窪地を見渡した。

「おい、メビウス」


 その時である。

 ルルデが睨み据える森の中から、白っぽいゆったりとしたマントのようなものを羽織った小さな人影がぽっかりと現れた。メビウスの知る限り、そのマントはシルフィード人が好む一般的な旅装束である。

 そしてその旅装束の主は若いダーク・アルヴの娘だった。

  成人であってもかなり小柄なダーク・アルヴや、同じ種族で肌の色が白いアルヴィン族の見た目は、シエナやメビウスのようなデュナンには全て子供にしか見えない。ましてや年齢を推測するなど無理な話であった。メビウスにはその少女がファランドールで言うところの成人、つまり十五歳に達しているかどうかもの判断すらできなかった。

 少女の真っすぐなさらりとした黒い髪は首筋のあたりで切り揃えられており、それは折から吹く風で小さく揺れていた。

 前方、つまりルルデの方を見て姿勢良く直立するその少女の様は、窪地に渡るゆったりとした風を纏って可憐であった。「敵」であるとか「兵士」などという単語は、少女の佇まいから連想される言葉としてはもっとも遠くに位置するものだとさえ思えルほどに。


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