第九話 アクラムの森

 白い影が何度か舞った。

 いや、この場合は「舞ったように見えた」と表現する方が正確であろう。それが影なのか幻なのかさえ定かではないのだ。

 ただどちらにせよ、その白い影の正体を見た者は声を上げる間もなく次の瞬間には意識は途絶えていた。もしくは影の正体すらわからぬままに。


(ちくしょう)

 下草や根が張り巡らされた足元の悪い森の中。およそ人が走れるような場所ではない。だがそこを勝手知ったる庭のように駆けながら、シエナ・フィリスティアードはあらん限りの罵詈雑言を使って自らを罵っていた。

 生涯最大の失敗を犯したことを認識したからだ。

 自らが指揮官として率いた部隊は、作戦遂行どころか、文字通りあっと言う間に総崩れになった。森の中、道なき道を駆けながらも、その一部始終がいまだに網膜に焼き付いたまま剥がれない。

(ちくしょう)

 何度目かの悪態。もう数え切れないほどだ。

 指揮官たるもの、悪態をつく暇があるなら、部隊を立て直す策を講じる時間に割くべきであろう。しかし、シエナには、いやシエナの部隊の誰にもそんな精神的な余裕はもはやなかったのだ。

 敗北は決定的である。これはもう覆しようがない。この場合、選択肢は二つ。すなわち降伏か撤退かである。

 だがシエナの部隊には降伏という選択肢はなかった。降伏は死よりも避けねばならぬ行為だったからだ。

 シエナの判断は速かった。彼は無能な指揮官などではないからだ。むしろ敵にして一目置かれるほどの賢将と言っていい人物なのだ。だから退却の合図を出すよう、とっくに指示済みであったのだ。だがいっこうに「調べ矢」の音がしない。

 理由は考えるまでもないだろう。シエナの命令を受けた部下は、不幸にも調べ矢を空に放つ前に敵の手にかかったに違いない。

 シエナの部隊では誰もが「調べ矢」を所持しているわけではなかった。理由はいくつかある。調べ矢とは特殊な音色を奏でるように、鏃やじり部分に細工が施された物だ。つまり通常の矢とは違う。弓兵は相手を射るための矢を出来るだけ、つまりは背負った箙えびらに一本でも多くの矢を入れておきたいものなのである。合図の為の細工矢は、言わば「要らぬ荷物」にあたる。

 もちろんこれは指揮官や軍、あるいは部隊によって考え方が違うだろう。少なくともシエナの部隊の弓兵達はそう考えるものが多く、信号役は特定の何名かに限られていたのであろう。

 別の理由はシエナが指揮する部隊の性質である。性質という言葉が適当でないならば「特徴」と言い換えてもいい。あるいは実績という言葉も当てはまるかもしれない。過去に於いて調べ矢を使用した事がほとんど無かったという事実がそれである。必要性がないものが、あまり顧みられることなく、やがて緩やかに淘汰されていくのは自然の成り行きであろう。シエナがそこまで部隊の装備を徹底できていなかったと言えばそれまでであろうが、それでも必要充分と考える複数の信号役は確保していたのだから、シエナの指揮能力に問題があったとするのは性急に過ぎるといっていいだろう。


「戦うな、逃げろ!」

 誰かが叫ぶ声が聞こえる。いや、あの野太い声はよく知っている人物だった。シエナの片腕、部隊の副隊長を勤めるメビウス・ダゲットの声に違いなかった。

(そうだ、逃げろ)

 もはや勝ち負けではなく、生き延びられるかどうかという状態に入っていることは、誰もが感じているはずだった。

「退却だ!」

「逃げろ!」

 味方同士の声が交わされる中、自らも全速力で駆けながらシエナはできる限り辺りの様子を伺った。そしてある事に気付いた。いや、わかっていた事を確認する作業だったと言っていい。

「ルルデ?」

 シエナは声を出して誰にともなく尋ねた。

「どこにいる、ルルデ?」

 ドライアド軍とおぼしき小隊の拠点を強襲、それが失敗して敗走をはじめた時には、確かに傍にいたはずの弟がいない。

 何度かその名を叫んだが、返事はなかった。

 シエナは焦った。

(ルルデでは)

 そうだ。

(相手が悪すぎる)


 シエナは意を決して立ち止まると、今度はためらわずに踵を返し、今来た道を駆け戻った。

 その表情は今までにも増して険しかった。そしてそれは引き返すにつれ、次第に引きつったものに変わっていった。

 かなり戻ったにもかかわらず姿が見えないということは、彼の弟のルルデが退却している様子が無いことを示していた。

(あるいは、もう)

 シエナは唇を噛んだ。血が滲むのもかまわずに、強く。


「少佐」

 すぐ側で声がした。

 立ち止まったシエナの側に副隊長のメビウス・ダゲットが駆け寄って来た。髭面の豪傑として鳴らしているメビウスの肩から血が流れ出ている。おそらくは矢傷であろう。まだ動けると言うことは、幸いにして毒矢ではなかったということだ。

「こっちは駄目です」

 しゃがれたような声でダゲットはそう報告した。ずっと大声で退却の指示を出し続けていたに違いない。

「そうだな。数が少ないはずなのに、奴らはあまりに強すぎる。勝手知ったるアクラムの森で俺達がまったく歯が立たないとはな」

「想定外です」

 メビウスはうなずいた。

「まさかとは思うが……スプリガンの小隊かもしれん」

「いえ」

 メビウスは首を横に振った。

「今となっては繰り言ですが、スプリガンの方がまだマシだったかもしれません」

「なんだと?」

「先ほどチラリと敵のマント下が見えましたが、あの黒い軍装はドライアド軍ではありません。もちろん侯国軍でも」

「シルフィードだと?」

「それだけじゃありません。既にお気づきかと思いますが、あの戦闘力から察するに、我々はおそらく高位のフェアリーがいる部隊に突っ込んでしまったようです」

「まさか」

 シエナはメビウスをにらみ据えた。

 メビウスのせいで相手がシルフィード軍になったわけではないのは分かっていた。シエナには自分のいらだちをぶつける相手が必要だったのだ。むろん、メビウスとてそんな隊長の心理は痛いほど理解していた。

「私は王国軍時代にシルフィードの駐留軍と合同演習を行ったことがあります。あの黒い軍装も見当が付きます。奴らはシルフィード軍、それも海軍です」

「本当か?」

「間違いありません」

「今頃なぜシルフィードの、それも海軍がサラマンダのこんな山中にいるんだ?」

 吐き捨てるようにそう言うと、シエナは地面を踏みならした。

「こんなご時世ですからね。何か特別な作戦か、あるいはそれに伴う補給の為に先行隊が駐留していたのでしょう」

「補給の先行部隊に高位フェアリーがいるというのか」

「おそらく。考えたくない最悪の事態を敢えて申せば、奴らはあのル=キリアかもしれません」

「まさか」

 シエナは低く唸った。

「『ドール』と叫んでいた声が聞こえました」

「ドールだと?」

 シエナは乾ききってひび割れている唇を再び強く噛んだ。ひび割れから唇の肉を割って血がにじみ、鉄の味が口中に広がった。それはまさにシエナの今の胸中にふさわしい味と言えた。

 スプリガンとは、ドライアド王国の精鋭中の精鋭で組織された特殊部隊の俗称である。対してル=キリアとはシルフィード王国のこちらも特殊兵で固められた急襲部隊の名称だ。どちらにしろ間違っても戦ってはならない相手だった。

 もっともシエナ隊とル=キリアとは本来なら出会うはずもない相手なのだ。仮想敵として想像する事自体がばかげていると言っていいほどである。

 シルフィード国王直轄の特務フェアリー部隊、それも選び抜かれたごく少数の高位フェアリーのみで組織されたル=キリア。実体を知る者は少ないが、その悪名はファランドールの兵なら知らぬ者は居ない。

 メビウスが口にした「ドール」とは、その精鋭フェアリー部隊のル=キリアにあって、なお特別視されている者の通り名である。謎に包まれたル=キリアであるからドールの本名や階級などの詳細まではシエナも知らなかったが、ドールという二つ名に付随する数々のおぞましい噂は当然のように知っていた。


 反対側に逃げたのではないかというダゲットの意見で、二人はルルデを探して敵の陣を迂回する形で進んでいた。幸い、敵に遭遇することなく回り込むことが出来たが、やがて切り立った崖に行く手を阻まれた。

 さてどうしようと思案を巡らしていると、崖の下から声が聞こえた。

「卑怯者め!」

 それは探していた弟の声だった。

「ルルデ!」

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