入学試験前

 1月30日。あれから僕は、お父さんとは一切の口を聞かず話さずで過ごしていた。もともと仕事で忙しいようだったから、顕著な変化はないだろうと考えていたのである。今日もお父さんは仕事に出かけ、僕は塾の激励会に行く。

激励会とは、先生や先輩たちから僕たちが激励の言葉を受け取るという、受験直前になるとどの塾でも必ずと言っていいほど行われる儀式だと、この前たまたま学校の友達に会ったとき聞いた。

「いよいよ受験ですなー」

「そうだね。無駄に緊張するよ。」

「激励会って何すんの?」

「さあ。激励されるんじゃない?」

友達といつもの駅内の牛丼屋さんの隣の角で会ってそのまま覚束ない足でいつもの塾へ向かった。

「俺、実はもう入試2回受けてるんだよね。」

普通中学受験と言えば2月1日から4日くらいに集中して行われると思っていたからびっくりした。でも、実は、中学受験をするときは体慣らしのために少しレベルの低めの地方の学校を受ける人が多いようだ。

「どこの入試?」

「いやー、思い出したくもない。俺を落としやがったところの名前なんて覚えていられるわけないだろ。そもそも俺は第1志望校として受けたわけじゃないっつーの。

でも結構緊張したわ。入試ってその学校で実施されるからさ、笑っちゃうくらい圧倒されて。それで受かれば何よりいい思い出だろうけどさ、落ちたりしたら最悪だよ。すぐに忘れてでもどっかに逃げるべきだな。」

「だったら僕に話振るべきじゃないんじゃない?また思い出しちゃうと思うけど。」

「いや。人生の先輩として後輩である君に激励の言葉を送ってやったんだよ。感謝しろよ。」

よく笑っていられると思った。心の中ではずっと苦しくて、でもなぜだかしゃべらないとすっきりしなくて。忘れようとすればするほど頭をよぎって、きっと僕は悩み続けるだろう。何のために受験勉強を必死にやってきたのか。努力した時間だけ後悔が生まれて、目に見える世界は暗くぼやけて見えるか、鮮明に自分の敗北を思い知らされるかである。試験に落ちればずっと嫌な思いをし続けなければならないのか。足が竦みそうで今すぐにでもひざをつきたいのに、受験まで止まることなく走り続ける特急列車にぶら下げられて足を動かし続けなければならないような苦痛。そんな感情だった。

「先輩でもなんでもないだろ。僕たちは同じ、受験生だよ。」


 「保護者の方々、今日は忙しい中来ていただいてありがとうございます。受験生の皆さん、あとわずかで受験ですね。えー今日はみんな緊張している人もいるだろうし、心配な人もいると思うから、先生たちとか、スペシャルゲストから激励の言葉をみんなに渡そうと思います。じゃあ梅本先生から。」

夜の5時に始まった激励会は、普段1つの部屋を2つの教室に分けていた仕切りを外して行われた。

「受験生のみんなを、まず心から褒めたいと思います。よくここまで頑張った。今まで君たちは、自分のやりたいことをいくつも断って勉強してきた。それは、それくらい自分の行きたい学校が、目標があるってことだよな。それはとても素晴らしいこと。あとは、それを現実にすること。合格発表の瞬間、君たちは自分がそれまで目指してきた学校で結果を待ちます。そこで自分の番号が見つかった時、どんな気持ちになると思う?自分の努力、友達との思い出、親への感謝。そんな、中学受験がもう1度、君たちの頭を通り過ぎるのかもしれない。でもそれは、自分の番号が無くても起こることだと思う。そんな時、もし悔やむような思いになったら嫌じゃない。だから、先生が君たちに伝えたいことは、受験が終わるその日まで、全力でやれ。中学生になるまでやったことは、絶対次に生きるから。それを忘れずに、これからの時間を過ごしてください。」

受験に失敗しても、後悔しない。そんなことが、僕に出来るだろうか。これまで目指してきたものが跡形もなくなってしまう。そこに後悔は残ってしまわないだろうか。

それからは1人1人の先生が応援の言葉を話し、1つ上の先輩からのアドバイスがあった。通っている学校の、着たかった学ランを着て、私服の僕らに話しかけてくる。満面の笑みで、自分は勝ち組だと思い知らせるように。きっと、あの場所から見る景色は、僕が感じているよりはるかに穏やかなものだろう。


 さて受験当日である。ぼんやりとした穏やかな空気に、もう1度布団の中へ引き込まれそうになったがなんとか踏ん張って筆箱の中身をチェック。普段通り、大事なテストには消しゴムを3つ持って行くことにした。朝ごはんも何ら変わらないいつもの目玉焼きとご飯とシャケのふりかけ。最後に牛乳を飲み終えて、少しずつ、緊張感が高まっていることに気付いた。

「受験番号書いた紙持った?」

「多分入ってる。うん入ってる。」

「いつも通りの気持ちでいればいい結果になるんじゃない?それが難しいのは分かってるけど。あ、パスモにチャージしておくの忘れた。ちょっと待ってて。」

「早くしてね。遅刻したらやばいから。」

寒い。ただ寒くて凍えているのか、それとも緊張しているのか、分からないまま体は震え続けていた。

電車に乗って1時間ほどして、やっと洋銘実業中学高等学校の案内の看板が目に映った。行きたくないという気持ちもある反面、早く終わりにしたいという思いもあった。とりあえずこの緊迫した精神状態から抜け出したいのである。

 学校に着いた。校門の辺りではいろんな塾の宣伝や、応援のために駆けつけて生徒と握手している様子もあった。自分が大勢の人を敵に回しているような気がして、とてつもない不安が圧し掛かった時「明浦セミナー」と書かれた赤い旗を見つけて、恐る恐る近づいていくと、向こうから声をかけて来てくれた。並んでいる10人くらいの先生全員と握手をした。後から聞いた話だが、1人僕が通っていた校舎の先生がいたらしいが、僕はあまりにも緊張していたせいで顔を見ていなかったらしい。

「じゃあ、行ってきます。」

「行ってらっしゃい。自分を信じて!」

お母さんの言葉を背に、僕は受験番号が書かれた教室へ向かった。




 

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