黒い月 Scene 2
スピカはキノコ狩りを始めた時からずっと、採取したキノコの同定に私の分析システムは使わず、持参したタブレットからサーバを参照して、そこに有るライブラリーのデータを頼りに食べられるかどうかを判断した。食べられると判断しても、最初は微小なかけらをゆでて食べることから始め、異常が無ければ徐々に大きくした。一歩間違えば命にかかわることだ。私は何度も警告した。するとスピカは「大丈夫よ。ちゃんと調べてるんだから。もしあたって私が死んでもゲンマは困らないでしょう?だれも悲しむ人もいないわ。この真っ赤な艶々とした、いかにも毒々しいこのキノコが美味しく食べることができて、こっちの茶色のふんわりとしたパンのようなキノコが毒を持っているなんて誰が考える?これとこれ、どう見ても全く同じキノコに見えるのにこっちは猛毒、そしてこっちは食べられるなんて信じられる?ドキドキするわ。ねぇ!そう思わない?ゲンマ」そう言うとまた新しいキノコをテーブルの上に載せ、データと見比べるのだった。その微笑みを湛えた生き生きとした表情を見ると、私は何も言うことができなくなった。その時私は自分が人工知能の3原則を逸脱することができることを認識したのだ。
ただ、私がもしスピカが死んだらNET上の友人達がどう思うだろう、と質問した時のスピカの諦めきったような表情と無言で返された答えは、私のメモリーに非常に大きなデータを残した。スピカは言葉では質問に答えず「ねえ。ゲンマ。この妖精のお家のようなオレンジ色の傘、美味しそうだし可愛いと思わない?でもデータと見比べると多分このキノコね。猛毒って書いてあるわ。駄目ね」と写真にデータを付けライブラリーに保存した。私はスピカがなぜ命を賭けてまでキノコ狩りに熱中するのか理解することはできなかった。
本当にスピカが死んでしまっても私にとって何も支障は無かったが、実際には何回かお腹を壊すぐらいで済んではいた。それ以降、私はスピカを静かに見守ることにした。
スピカは尾根沿いに歩を進め、さらに何ヵ所かの沢を下り、いつもの場所でいつもの美味しいキノコを発見し歓声を上げた。「やった~!輪を描いてるよ」大きく傘を広げた茶色いキノコが輪を書くように群生していた。独特の香りがセンサーに感じられる。「いい香りだね。食べられる香りだよ」周りは胞子で真っ白になっていて、落ち葉の下を探るとキノコのつぼみが幾つも出てきた。スピカは大騒ぎをしながら食べきれるだけそれを採集し籠に放り込んだ。さらに少し横道に入っては、これまでに見たことの無いキノコの写真を撮り、少しだけ採集した。籠がいっぱいになると、それは私の下げている大きな籠に移され、運搬は私の役目になった。やがて踏み跡は外輪山に差し掛かり、急な登りになった。スピカは息を切らしながら、それでもキノコの採集を続け中腹にある少し開けてテラス状になっている岩棚まで登った。「ふ~~ぅ」スピカは大きく息を上げると「ゲンマ!今日はここまでにしよう。お昼を食べてゆっくりしたら引き上げよう」と言うとテラスの一番前に座り、足をテラスの外にぶら下げた。足元は垂直な岩の壁になっていて、ぶら下げた足の下には20メートル以上の空間が広がっていた。
私がスピカに出会った頃、始めてここにやってきた時もこうやって座るので私は警告した。すると「大丈夫よ。ちゃんと気を付けて座ってるんだから。もし私が落ちて死んでもゲンマは困らないでしょう?だれも悲しむ人もいないわ」と言ってぼんやりと向かいの外輪山を眺めたのだった。そして立ち上がった時には「ここで立ち上がるとわたしはね、ゲンマ。こうやって……」と一歩前へ踏み出そうとした。「飛び出したいっていう衝動に駆られるの。ブワ~~ッてここから降りていく感じ?すごく気持ちが良さそうな気がするのよね。でも頭から肩までキュ~ンと締め付けられる感覚?そんな感覚で一歩前へ出ることは出来ないの。それでね。そっと後ろへ下がるの」とゆっくりと後ろへ下がった。そしてまだつやつやしていたその顔で力なく微笑んだのだった。
私はそれ以降警告することを止めてしまった。
70年が経過した今もスピカは足をブラブラさせながらぼんやりと向かいの外輪山を眺めている。足元には馬蹄形の第2カルデラを構成する2つの半島がミアプラキドゥス湖に向かって突き出している。半島には右側はボルックス、左側はカストルと言う名前が付けられていた。スピカの小屋はカストルの先端にあって、我々はカストル半島を先端からずっと移動してここまで登って来たのだ。2つの半島に囲まれた濃い青色の水を湛えた水域は中湖と呼ばれ、この湖で一番水深が深い部分だ。
「ねえゲンマ。ここから見る風景は本当に綺麗だね!」スピカは子供のような顔をこちらに向けて嬉しそうに言った。とても90歳を超えているようには見えない。
「冬葉緑に紅葉色や黄葉色や枯葉色をちりばめた山、本当にこれが自然に出来たものだって思う?この組み合わせとバランス、絶妙だと思わない?木々が一本ずつのそれぞれに勝手に色付いてたら、とてもこんな風な並びにはならないと思うの。何か不思議な力が離れた所から全体のバランスを見て配置を決めたんじゃないかって思えてくるんだ。わたしはこれまでそんなことを思わないようにしていたんだけど……」私は反応を返さなかった。
「それにあの中湖の透明な冷たい深水色、周りの湖の色よりいっそう深くて、こんな深い色合いの巨大な宝石が、この細かな綺麗な色の飾り石をちりばめたボルックスとカストルの間に、自然にはまり込んだなんて。誰が信じる?」私が反応を返さないので、スピカは景色の方へ目を戻してしまった。
しばらくして小刻みに震える肩を見て私は尋ねた。「泣いているのか?」
「泣いていたらいけない?」振り向いたスピカはポロポロと涙をこぼしていた。
「スピカが涙を流していてもなんら不都合は無い」
「でしょ。でも、わたし……なんで泣いてるんだろう?わかんないよ。ゲンマ、少しの間泣いていてもいい?」
「時間はたくさん有る、問題無い」
「ありがとう」しばらくの間スピカは遠く外輪山の方を向いて肩を震わせていた。
スピカが私に泣き顔を見せるのはこれで二度目になる。前回は23歳の頃、私にぶら下がって上空4000メートルまで上昇して外輪山の外を覗いた時だ。延々と広がる赤錆色の砂漠に声を失ったスピカは静かに涙を流したのだ。それ以降スピカはこのアルファルド・カルデラを出る話はしなくなった。そして菌類の調査に情熱を燃やし始めたのだ。
「お昼ごはんにしようか?」振り向いたスピカは勤めて明るく振舞う様子で言った。
「かまわないが、私には……」いつものように私が答えようとすると、スピカもいつものように途中で遮り「ゲンマの最大の欠点は食べないこと、だよね」と言ってニッコリ笑った。
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