黒い月 Scene 1

 東側の山越しに差し込んでくる太陽光線が、湖の反対側の山々の上部を照らしている。太陽光線はまだ遥か上空を通過していたので、彼女の短くカットされた白い髪や、つやを失い幾筋もの皺が刻まれた顔や、ほっそりとした体は影の中にあった。

 それらは彼女の年齢に見合ったものだったが、絶妙のバランスで構成されていたので、実際の年齢よりはかなり若く見える。凛とした立ち姿や、何気なく着ているシンプルなワンピースが、さらにその印象を強くした。

 彼女はテラスの手すりに肩幅より少し広げた両手を置いて軽く体重をかけ、眼前に広がる湖を見つめていた。

 季節は秋、時間は午前6時、まだ上がりきらない気温のために、彼女の息は白い蒸気となって呼吸に合わせて広がっては消えていった。

「ゲンマ!ゲンマ!中に居るの?」彼女は家の中に向かって声をかけた。

 私は上空からベランダへと降下した。「スピカ、こっちだ」

「なんだ。上に居たの。ほら!今日は風が凪いでいるから湖面がまるで鏡のようよ。見て!」スピカは両手を広げて湖を抱擁してから「あそこ!」と外輪山の中腹を指差した。「あの日があたり始めたところの紅葉と緑色のコントラストがとても素敵でしょ。日のあたっていない部分ととても対照的で、まるで陰影の上に浮かび上がった天空の庭のようよ。それに目の覚めるような空の青!それがそのまま湖に映ってるんだもの。ため息が出るわ」

 スピカの言った日のあたる部分は時間をかけて領域を拡げていき、やがて光は湖面に達した。そして暖められた空気は上昇気流となった。

「ああぁ、せっかく鏡のようだったのに。どんどん輪郭がぼやけていく……」上昇気流によって発生した風は湖面を正反射から乱反射に変化させ、スピカをがっかりさせた。日のあたる部分はさらに領域を拡げ、ようやく届き始めた太陽光線が彼女の白い髪に断続的に反射し始めた。

 暫く名残惜しそうに湖面を見つめていたスピカだったが、クルリと顔をこちらに向けると「ねえ、ゲンマ。今日は空気がキーンと張ってるね。そろそろ解禁だと思うんだけど?」と尋ねてきた。だが私の意見など聞く気も無い事は明白だ。

「スピカがそう思うなら時期が来たんだろう」

「そうね。朝ごはんを食べたらキノコ狩りに出かけようよ。もういっぱい出てるような気がする」そう言うと、期待に胸を躍らせている様子で朝食の用意をしに小屋の中へ入って行った。

 それは毎年スピカが決めることだった。大型の食用キノコを採りに出かける日、それを空気の温度や自然の色の変化と人間の勘と呼ばれる感覚で決定するのだ。キーンと空気の張る日、とスピカは言うのだが、私の高感度のセンサーは昔から完全に無視されてきた。

 ここ数十年スピカはこの大きな火山が崩壊して出来た穴、アルファルド・カルデラの探検を続けてきた。特に菌類、中でもキノコに非常な興味を持ち、次々と新しい種類を探してアルファルド中を歩き回った。キノコについては写真を撮るのと食べる事がその目的の大半だったが、専門的な知識も蓄えて学術的な調査らしき事もしていた。スピカが若いうちは徒歩やボートで何泊もキャンプをしながら外輪山を一周することも多かったが、歳を取ってあまり無理ができなくなると、さすがにそういうことは無くなった。しかし、まだまだ足腰は丈夫で、日帰りできる位の距離までは出かけていたし、ボートを使えば少し遠出もできた。もちろん私が漕ぐのだが。

 今日もその探検に出かけようというのだ。食事を済ませるとスピカは山行用の丈夫な長ズボン、ウインドブレーカー、前方に小さなつばのついた帽子、それにトレッキングシューズといういでたちで出発した。テラスから出発して森の中を少し下るとスピカが作った小さな農園が有る。数年毎に焼畑を繰り返して何十年も耕作を続けてきた大切な畑だ。色々な種類の作物が生産され、釣獲することのできる魚と合わせて、かなり前から冷凍庫のパウチパックを利用することはほとんど無くなっていた。

 収穫が終わって刈り跡だけがランダムに並んで残る穀物畑の横を抜け、種を取るために野菜や豆が少しだけ残してある畑の横を通り過ぎると、道は踏み跡に変わって森の中へと続いてゆく。私は横に並んだり上空から見降ろしたりしながら、スピカの状態が把握できる程度の距離を保って同行した。スピカの小屋は湖に突き出した半島の先端に立っていたが、今日の山行はその半島の付け根まで歩き、さらに外輪山の中腹まで登るというものだった。尾根にそって出来た踏み跡を辿りながら、時々沢伝いに下ってキノコを探し、生えていれば写真を撮ったり採取したりし、また尾根まで登ってを繰り返す。スピカは5ヶ所でこれを繰り返してから尾根の上で休憩を取った。

「ゲンマ、わたしも歳を取ったのかな?若い頃なら外輪山まで休憩なしで行けたのにね」スピカが湖の向こう、遠い外輪山を見つめながら訊いてきた。

「私のデータとスピカの話を総合すると、すでにスピカは90歳を超えている。これは人間として歳を取ったと判断するには充分だ。だが、その年齢でこの体力は驚愕に値する」

 スピカは遠くを見つめたまま微笑んだ。

 暫くそうした後、急にこちらを向いて「ありがとう。それは誉めてもらってると解釈していいんだよね?」と言った。

「私は人間が嬉しく感じることを自分も嬉しいと感じるように作られている。そして私はスピカが自分の体力を維持できていることを嬉しく感じていると考えている。だから誉めていると解釈してもらって結構だ。データベースにその年齢でこの体力を維持した人間のデータは無い」

「わたしは嬉しいのかどうか自分ではわかんないな……」スピカはまた遠い目をしていたが「でも、体が辛いよりはこのほうがずっといいよね!」と立ち上がった。

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