駄文2018/03/03

・節約するぞ


今日こそは色々できるだろうと思ったら、午前中の用事が長引いて、人混みに入ったせいか頭痛で午後いっぱい寝込んでしまった。葛根湯とパブロンを飲んで夕食。実家に行き楽器を触る。



それで一日が終わる。何もできないまま時間だけが過ぎていく。期限もなければ焦るようなこともないのかもしれないけれど、随分と虚しいものである。調子が悪くなければ、前職場の用事も済ませられたかもしれないが、これは道路状況がまだよくないので車を使いたくないということもあったので、良しとする。



デカフェを急にやりすぎたのも頭痛の一因だったのかもしれない。徐々にカフェインの摂取量を減らしていくか、少なくともデカビタCゼロ2本の翌日に即断ちするようなことはないようにしたほうがいいのかもしれない。温泉に行くという手段もあるにはあるが、先述の通り車での外出を避けたいということと、時間とお金を節約したいということがあるので、しばらく行っていない。



床屋も、1ヶ月我慢すれば3000円超が浮くわけだ。さいわい今はあまり人目を気にしなくていい生活を送っているので、多少ボサボサでも問題はない。節制を身につけておかないと、これから先の家計に影響があるだろう。



「期限がない」などと言ったが、実際は細かい用事の締め切りもあるし、こんな生活を続けられるのも今年の12月までだ。それまでに何らかの結果を出せと言われているものの、そんなに物事がトントン拍子で進むのであれば、こんなに不安な状況に陥ることもなかったはずだ。



そこで、物事の「拍子」そのものを上げたいと思って日課のペースを上げてやってきたけれど、それもどうもうまくいかない。やる気があれば具合が悪く、具合が良ければやる気がなく、両方揃えば時間がない。



それはダイアル錠が開かないようなもので、とにかく回すしかないし、ある程度番号が分かっているのであれば、それをどう動かさないかを考える必要がある。そういうことが本当にうまくいかない。しかし主に自分一人のことなので、他人と協働したり、他人に何かを説明しようとするよりは、遥かに負担が軽い。



・不明をやる


この世には、自分と同じかもっとひどい状況から、それでも理想の状態を実現させることができた人というのがいるはずで、ではその人はどうやったのか、ということを推測したい。自分の抱えている不幸や無能力も、特別珍しく個性のあるものではない気がするからだ。



一人でできるタイプの仕事をし続けることができるための能力、それを身につけるための能力、能力のための能力というものを、自分の欠点から逆算してどう手に入れるか、あるいは何を犠牲にするかを考える。自分の場合は、安定的な収入と人間関係を犠牲にする(した)。それでどんな能力が手に入ったのかといえば・・・こうして延々と能書きを垂れる能力くらいのものである。良かれ悪かれ、これが自分の場合の「能力のための能力」だ。



さらに、この無用の長物をどうやって社会的な価値のある「能力」に結びつけることができるかを考えよう。自分が考えていることを、正確さや客観性に乏しいものだとしても、文章にできるということを使って、例えばどんな「能力」が欲しいと思うのか。



外国語の読み書きができるようになりたいというのは、ずっとある。対象が世界全体であれば、頭のおかしい人間に餞別をくれてやろうという人の100人はいるのではないかと思うし、字面の上で何を言っているのかがお互いに分かれば、それだけで偶発性の価値が見出されるかもしれない。



ただ、異文化・遠方の人を相手取ったとしても、自分の考えそのものに価値があるようには思えない。支離滅裂としていて、言っていることも判然とせず、ただ言葉が並んでいるよりも性根が腐っている分だけタチが悪い。したがって内容とは違う部分に意味をもたせるということのほうが良さそうだ。たとえば、文字数。極端な文字数があれば、それは内容とは別の意味が生まれるかもしれない。膨大な無意味、膨大な無価値というものがあれば、それは翻って自分が好みとするところの無意味である。



では、訓練を受けたことのない人間が作ることのできる文章量として、どこからが「膨大」なのだろうか。1日10万字程度では通用しない。それこそ起きてから眠るまで止まることなく打ち込み続けた文章からが、ようやく長文ということになるだろうし、そのために人生の全体を賭けたものでなくては、「無意味」が発生しない。無意味が発生しないという無意味は、意味未満に過ぎず、意味未満は無意味よりも虚しい。ちょうど今日一日のようなものだ。



それでは速やかに「膨大」を諦めて「意味未満」をやろうと思う。自分が何事かを成し遂げることは一度もなかったし、これからも無いだろう。自分のすべての行為が「意味未満」であり「価値未満」に過ぎないと開き直って、大したことのない内容の文章を、大したことのない量、毎日書き続けよう。これで無意味をも回避することができる。意味はあるが、とるにたらない。生きてはいるが、とるにたらない。



同時に「能力」を得られることも、今後(今まで同様に)無い。どのようなことができるようになったとしてもそれは児戯で、どんなこともできたうちに入らない。誰の期待に応えることもできず、そもそも期待をかけられることがなく、それ以前に人との関わりをもち得ない。人生は掛け算で、ゼロがあるので全てゼロである。



それでもやることがあるか、それでも構わずにやれることがあるかということである。具合が悪ければ全てを投げ出して、やる気がなければ全てを投げ出して、時間がないことを言い訳に全てを投げ出して、それでもやれることがあれば、それをやるので良いし、それ以外のことは何一つできない。



ただ、実際の行動とは別に何らかの状態を夢想することはあっても良いだろう。つまり、夢想そのものは、何もできない自分でもできることの一つである。理想の状態、ありもしない出来事の連続で得られる、架空の果実について夢想する。その夢想が、何をしても何の価値も意味もないという決定的な現実に薄く膜を張り、まるで何か、遠い世界や思いもよらない事態においては意味があるかもしれないという気にさせる。そういった勘違い、自覚的な嘘、逃避によって、端的にたとえば自殺を防ぐことができる。



しかし自死しないことに意味があるだろうか。というと、この程度の問いは子供だましに過ぎず、生存や存在というものは、人間世界の「意味」をとうに超えたものである。そこには自分も他者もなく、肉体と精神の区別もない。だいたい人間の世界の言葉や認識で、生きることと死ぬことを論じたり、決定することができると思い込むことが浅ましい考えで、それも自分のような人間が決めることができるなどとは随分とおこがましい態度である。



どんなに祈っても、泣き叫んでも(おそらくそのように祈り、泣き叫びながら)死ぬのだ。その時までは、意味未満のことだけをし続けて、人を傷つけて、あるいは傷つけないように全員を避けて、生きる。それは無意味でも意味未満でも、もちろん有意義でもない「意味不明」の営みだ。それをやる。同じことを言葉を変えて、または言葉を変えることすらせず、何度も言い続ける。誰の方も向いていない言葉で、自分にさえ分かりかねる言葉で言い続ける。そういうことであれば、薬を飲み、半日寝てから、前屈みになってやり続けることができる。それは「意味不明」の行動である。意味世界を逸れた、虚しくてどこかしら自由な振る舞いである。

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