駄文2018/03/04

・体調管理と今後の流れ


 今日は比較的穏やかに過ごせていて、これはネックウォーマーのおかげかもしれない。肩こりを未然に防ぐために室内でも装着してみたが良かった。午前中でスケッチをいくつかやって、読書、語学、ブレストを済ませたということで、順調な方である。



 次回の有料マガジンはイラストにすることにした。10点をひとまとめにして、購入者が現れたら公開する。週ごとに種類を変えると負担感がなさそうだ。



 有料マガジンはおそらく悪手で、収益が見込めるものではないと思うようになった。それでも定期的にやっていきたいと思うのは、あくまで自分の中で日次のものとは別の締め切りが必要だと感じ始めたからだ。



 そういえば去年は無料の投稿で週次の更新を目指していたが、これは継続できなかった。有料だから出来るということではないにしても、少し趣旨を変えてやっていきたい。



・現実に向いていない


 ガキの使いのような買い物を頼まれて失敗する。別の種類のものを買って来てしまい、萎れる。こういうことがあるので頼まれごとは向いていない。他人に興味がないということよりかは、自分の世界に対して他者の介入はノイズであり、それによってちょっと余裕がない時だとすぐバグる。他人がノイズなのではなくて、介入がノイズなのだと思う。したがって、呼びかけや電話に限らず、悪天候や風邪も、主体が何かに関わらず介入としてのノイズである。そういうことにめっぽう弱い。



 だから、「失敗」ということも、かなりきついノイズになる。自分の中の失敗であればいいというか、どうせ全てが失敗なのだから気にしていられないのだけれど、その失敗に他者が関わるということを、想像すると耐えられない。そこには連絡と謝罪が密接に関係していて、それが自分の人生そのものの「失敗」の象徴的な儀式であることを思い出してしまう。すると苦しみの再発を回避しようとする働きによって、苦しみが前駆的に再発してしまう。苦い痛みのようなものが渦を巻いて、何もできなくなる。



 ということは、目の前の失敗を、自己破壊的な連想と切り離すことができれば、多少は楽になれるのかもしれないが、これをやってしまうと、今度は失敗の持つ教訓的な要素が抜け落ちてしまう。すると何が起こるかというと、失敗が立て続けに起こり(それを妨げる機能が失われるので)、やがて連想を無視できないレベルまで被害が膨張する。つまり大失敗となる。



 介入も、失敗も、ノイズになるにはそれなりの理由があるということだろう。電機的なノイズであれば、機材トラブルの兆候である。大失敗を防ぐために、小さな失敗によって毎度身悶えするような激烈なダメージを負う必要がある。そうすることでようやく、何でも都合良く考える自分のような人間でも、危うきに近寄らず、他人や社会に迷惑をかける頻度と規模を抑えることができる。



 ただ・・・可能であれば、別の機能によって大失敗を、それも小さな失敗を含めて、未然に防ぐことができないだろうか。そういった意味では「直接関わる人間の数と回数を減らす」というのはかなりの効果があった。しかし、まだ十分ではない。



 これ以上人間との関わりを減らすと、今度は生活そのものが危うくなる。経済的な意味でも、精神的な意味でも、周りの人の庇護無しで生きていくことが、現時点ではできないからだ。裏を返せば、経済的・精神的に一人で生活できるようになれば、さらに人間との直接的な関係を減らせるようになるということでもある。



 元からそのために、意味や価値が発生するとは思えない程度のことでも、それしかできないからとやり続けているのだった。いつだって何もかも投げ出していいところを、虚しく惨めに一人遊びをしているのは、それが有り得ない世界を夢想するための鍵だからだ。そう考えると、間違った世界を夢見るということは、自分の授かった能力であると言い切ってもいいのかもしれない。その昔、神さまから会計簿と夢見る力を授かったと言っていた詩人がいたそうだが、自分の場合は後者のみで、しかもそのほんの少しを授かったといったところか。



 それを種火にして、すこしずつ大きな火にしてみたいという気持ちも無くはないけれど、その火が自分はともかくとして、誰かを火傷させるようなことになったら、責任が取れない。こういう時に自分の能力の無さ、才能の無さが便利でもある。すると、この無能力・無才能と夢想をもって、一人遊び以外に何かできることはないものかと思う。



・何人で何をするのか


 ここでいう「一人遊び」というのは、「A:他人と関わりを持たないかほとんど持たず、まったく義務ではなく快楽を享受することだけが目的の行為」ということにする。そして「一人遊びではないこと」というのは、この2つの要素において、別の組み合わせが起こっている行為だとすると



B:他人と関わりを持たないかほとんど持たず、義務的な行為を行うもの


C:他人と関わりを持ち、まったく義務ではなく快楽を享受することだけが目的の行為を行うもの


D:他人と関わりを持ち、義務的な行為を行うもの



というバリエーションを考えることができる。



 まず、Bなら今からでもできるかもしれない。義務が義務たりえるかという時に、「期限」というのが重要な要素のうちの一つなので、これを逆手にとって「(まだ)やらなくていいこと」を「遊び」とみなすことができる。もちろん、それがうまくいくかどうかは別だ。「(自分が)やらなくていいこと」や、「(そこまで)やらなくていいこと」などもある。



 Cは相手を選ぶ。それに頻度も月に1回が限界だ。その後に回復する期間が必要でもある。しかし、不可能ではない。



 Dは完全に無理だ。無理だということにして、是非もなく回避したい。全て失敗だったし、価値どころか厄災を招くばかりだった。これからもそうだ。



 それでも、一人遊びではないこと、「B:一人義務」と「C:複数人遊び」であれば、できなくはないということだ。逆に言えば、「D:複数人義務」をしない生活を設計することができればいい。



・あなたに祝福がありますように


 ただし、ここでは能力の無さがネックになる。決めたことができず、何もかもを忘れ、すぐに体調を崩す人間が、「分担」を避けて「一人義務」で生きていけるとはちょっと考えにくい。そこを何とかするには、少なくとも時間と経費が必要になってくる。



 ではこうしよう。この一年で、「一人義務」に関わる大小さまざまな失敗をする。それを教訓として、自分の能力に頼らずに生きていくことを目指す。何もできない人間が、しかしある場所に常に一人でいる。ということによってのみ、生きていこうとする。そのための支度をする。



 それは路肩に座り続けて物乞いをするような、正規に社会へ参加できない人間の態度だ。できることなら一時しのぎであって、やがて職を持つなどして自立することが望まれるのだろう。



 しかし、社会的な情勢や環境などではなく、本人の性質のみに問題があって、それが仕事の本質(複数人義務)と相反すると判明した以上は、仮に物乞いを卒業できたとしても、真っ当に社会へ参画できるとは思えない。なぜならそれができなかったことの帰結として、現在の状態があるからだ。



 それでも、「一人義務」についての失敗を収集するということは、まだ試していない失敗だ。それに挑んで失敗することで、また新たな失敗の方法を見つけることができるかもしれない。あとは時間と資源の許す限り、一人で遊んで暮らして、ごく稀に気の合う他人との遊びに消耗しよう。それで今年が終わった頃には何だかおかしな事態になっているのであれば、それはそれで構わない。

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