駄文2018/03/01

・外出しなきゃよかった


大雪で大変な目に遭った。埋まってしまった車でなんとか出ようとしたが、人に押してもらっても無理で、やむなく出先に置いたままにして歩き出したものの、街中で車が動けなくなっており、通りかがるたびに手伝わないわけにもいかず、結局、家に帰るのに2時間以上かかり、何もできずにダウン。毎日のブレストがまだだったと起き上がる。



昨日無理したこともあって、今日は朝から何もできない一日だった。何もできなかった日に、何か思いつくこともなく、普段から何を考えていたのかもあまり思い出せるような感じではない。そういう時こそブレストが必要なのかもしれないけれど、まだ糸口を見つけられないでいる。珍しくて面白い状況ではある。



記憶喪失で出自を思い出せない人が、それでも日本語を話せたり、歩けたりするということは、記憶にも階層があるか、種類によって強度のようなものがあるということだろうか。しかし、ものを考えることができるかどうかということは、記憶についての領域に限らず、脳全体の働きに関連する。



脳にも限らず、体の状態によって、思考の方向性は変わる。厳密には、体からの情報をまとめているのも脳なのだけれど、であればなおさら、特に負の情報がノイズとして発生するかどうかは大問題だ。肩こり、腰痛、呼吸の浅さ、自覚のないところでいくと、姿勢の悪さによる内臓の血流の悪さなどもあるかもしれない。



何も思いつくことがないという状態が、全てそうだとは限らないけれど、思いつくことがないのではなくて「妨げられている」という場合もあるだろう。あるいは、そうやって出力されるものではなくて、いくつもの条件が重なった状態が、「何も思いつくことがない」であったり、「何かを思いつく」であったりするのであれば、望ましくない状態に変化をもたらそうとするだけで、効果があるかもしれない。背筋を伸ばし、呼吸を深くしてみる。考えてみれば、気のすむまで休むのだって、時間を消費して変化を及ぼそうとする振る舞いだと言える。



体があるということは決して負債ではなくて、僕らは「体のある脳」を持っているということで(それが仮想現実で、本当はビーカーに浮いた脳だけの生き物だったとしても)、その傾き・偏りによって行動を決定づけていると思いたい。なにもせずに寝て暮らしたいと願うときに、その要望を追求してしまうと、肉体を持たず思考するだけの生き物になりたいということに行き着いてしまうけれど、そうやって余計なものを削ぎ落とした思考体というものが、はたして当初要求されていたものの延長上にあるのかは疑わしい。



自分の場合、「なにもせずに寝て暮らしたい」という要求は、「なにもせずに寝て『も』暮らしたい」ということであって、「なにも『できず』に寝て暮らしたい」のではないからだ。気も移りやすい性格なので、1週間もすればまた余計なことを頼まれもせずにやり始めるに違いない。



たいていは問題が発生している現況をどうするかという話であって、「なんにもしたくない」とか「死んでしまいたい」ということも、純粋な要求としてではなく、そう要求するほどのつらい現況を、自らに訴えようとする手段として採用される。これは「どうしてこんな状況なのだろう」という問いが発せられる場合、それは純粋な疑問としてではなくて、不満や嘆きに過ぎない、という仕組みに似ている気がする。



体を失って思考だけをする生き物になりたい、と思うだけの現在の状況。苦しみを存在もろとも消し去ってしまいたい、と思うだけの現在の状況。その状況を私は肯定せず、然るべき変化の発生によって打破したい、と思っているということ自体が肯定されれば、なにも極端なことを引き合いに出す必要はない。



ただ、他人とのやり取りにおいては、自分の抱えている感情や感覚というものは伝わりにくい。それをどうにか伝わるものにするためには、極端なものを用いてでも、自分の訴えに「重さ」を加えるという方法を選ぶこともあるだろう。子供も自らの要求が通らない時に、さらに幼い頃のように泣き叫ぶことがある。このような極端な状態の私なのだから、要求を優先せよ、ということである。



その手法を自分に向けてやってしまうのは悪手だと思う。事実どれほどの苦しみであるか、どれほどの状況であるか、ということについては、訴える側の自分もそれを聞き入れようとする自分も、意見を異にすることがない・・・いや、自分の苦しみに気づかない、ということはあり得る。しかし、その齟齬は、自分が自分に対して極端な訴え方をするものだという前提によって発生するのではないか?



この程度のことで参ってはいられない、と自分の感情に蓋をすることを無意識的にできる人であれば、極端な反応(身体的なものを含める)をもってようやく気づくということもあるのか。ただ、その場合においても、自分に向けて意図的にオーバーに苦しみを訴えるということが起きているのではないような気がする・・・議論になんらかの混乱があり、うまく筋道を立てて考えることができない。単に体調の問題かもしれない。



・旅や、さまよい歩き


自分に自分の苦しみを誇張することの是非については置いておいて、他人に自分の苦しみが伝わりにくいという話に戻ろう。これは逆もまた然りであって、他人の苦しみが自分には伝わりにくく、そのことによってようやく、他人との関わりが可能になるということは言えないだろうか。人間一人分の苦しみに、想像力によって付与される仮想的な他人の苦しみが加わる。ある程度であれば耐えられもするが、他人の苦しみが自分へ過度に伝わってしまうことがあれば、その重荷を長く背負い続けるということは難しい、というかあまり考えたくない。



実際にはそういうものを抱えつつ、それでも生きていく人がいるはずで、そうでなくては社会が成り立たないのだと思うのだけれど、自分がそうなることができるかというと、一人分でもヒイヒイ言っているようではまず無理だろう。



それ以前に、ここで考えている限りでは、苦しみが伝わるかどうかということは、あくまでなんらかの変化を対象に要求するための手段とされているのだった。望むものを、相手にとっても無理のない程度で得られるのであれば、苦しみが伝わらなくても、分かり合えなくても、一応良しとすることができる。



そうすると、感情や感覚の伝わらなさよりも、要求の伝わらなさのほうが重要になってくる気がする。それも、伝わるような要求というのは、自分の中で既にある程度精査されていなければならず、要求が忠実に叶えられたとしても、「本当に望んだのはこれではない」というような、なんだか昔話のようなことになってしまう。



あるいは、それが「本当に望んだこと」でなくても構わない要求をするというのもアリなのかもしれない。漠然と期間を設けるとか、先立つものをとりあえず拝受するとか、他者に対してはそういう要求にとどめておいて、それを足がかりに「本当に望んだこと」については自力で見つけようとする態度というものは一般的ですらある。



たとえば「自分探しの旅」をするのでも、そのための期間と資産が必要になる。他人に向かって「自分を探したいんです(探してください)」と要求するよりは、労働の対価を受けて、休暇をもらえばそれでいい。



「自分探しの旅」について言うと、これは変化を自分の行動によって要求するという行為であると思う。「旅」というものが、変化としての極端さ、分かりやすさを持っているとすると、これも自他に対する訴えに「重さ」を加える一つのやり方なのかもしれず、おそらくなかなか良いやり方の一つなのだろう。



物理的な移動を好まず、また大きな移動をする力のない人間であれば、旅の代わりに辺りをうろつくことでも多少の変化を起こせる。家の周りを歩くのでも、普段考えていることについて書き残すのでもいい。どうせ時間は絶えず流れて、弱ったり朽ちたり腐ったりという変化は起きているのだ。「変化を起こす」のではなくて「望ましい変化を求める」、それも「変化を変化させる」というようなものを、旅人や、延々と独りごちている者などは、夢見ているのかもしれない。

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