毎日駄文3000字超

駄文2018/02/28

・字数が増えます



明日公開するつもりの有料マガジンのたたき台を作っていたものの、頭が回らなくなったので中断する。本来であれば何日か寝かせるべきで、初回からこんな調子で先が思いやられる。



思いつくままに文章を作るだけでも苦労するのに、意味や筋道がもう少しはっきりした文章を作ろうとすると、急にぎこちなくなってしまう。言いたいことは漠然とあるのに、それを理路整然としたものにしようとする途端、もつれてしまう。



まあ、そういうものなのだろう。休憩してから手を入れて体裁を整え、明日また見直して公開できればいいかなと思う。他の日課はいったんお休みして集中的にやっていこう。



それに比べると、このブレストは随分楽な気がする。その代わり何が言いたいのか最後まで分からない文章になってしまうのだけれど、何らかのメッセージがあるわけではないので、素振りのようなものとして、ある程度継続することができた。



しかし今回、もう少しまともな文章も作っていこうとするにあたって、素振りの方にも、もう少し負荷をかけたほうがいいような気がしてきた。そこで、従来2000字は書くと決めていた字数制限を、3000字に増やしてみる。確認すると、今まで作ったものはいずれも3000字以内だったので、今日の分からはもう少し冗長になっていくと思う。



・カードゲームのデッキを組むような


だいたい真っ当に何がしかを書いている人であれば、一日に3000字など軽いジョギングのように済ませてしまうのだろう。作曲家が一瞬で曲全体のアイデアを閃くように、そこには訓練とは違う次元で要求されるものがあるのかもしれないし、大量に書いたものを、そこから圧縮することのほうが何倍も困難で重要なことなのかもしれない。



作品のために要求される能力というのは、どこまで一定なのだろうか。記憶や動作に関わる訓練というのはあるだろうけれど、特に絵については、人によって使っている脳の部分、使っている才能が違うのではないか、ということを考える。



というのも、人間の脳が、現代を含めるいつの時代に対しても、順応する「才能」を用意しているとは考えにくいからだ。一つの結果に対して複数の、能力の組み合わせがなされていて、それがひとまとめに「絵の才能」とか「文章の才能」とか「営業の才能」とかと呼ばれているのだと思う。



すると、やりたいことがあって、そのための才能があるか、ないか、ということを考えるのは実は不毛な論法で、自分の能力を、どう組み合わせるとやりたいことが実現できるのか、という考え方をしたほうが良いのではあるまいか。



例えば、自分はスケッチをする時に一旦「色」のことは放棄している。厳密には「色相」だけでなく「濃淡」も放棄しているかもしれない。そういうものではなくて、どこに境界線を引くと、ニュアンスが伝わるかということを考えて試して繰り返している。面白いのがほとんどの場合、自分の目に見えている通りに描くと失敗することだ。そうではなくて、目の前にあるものとは別の、しかし同じものを意味する「記号」を用意して、設置する。という感覚に近い。これは誤解を恐れずにいうのであれば、書字に近い。形が厳密でなくても、その文字の「意味」が伝われば、まあまあ成立する。



もしかしたら、なんでも文字や文章のように考える性質があるのかもしれない。いや、だとしたら、文章づくりがもっと上手であるはずなので、詳しい言い方としては、何でも文字や文章の領域に近い部分で考えている、という程度のことになるだろう。では、それはどういう部分、どういう認識なのだろうか。



すぐに答えが出てきそうにないので、まず「何ではないか」ということをいくつか上げていこうと思う。先ほどのスケッチの例で、「記号」という言葉を使ったが、それは暗号的な法則を持ったものではない。また、大きな文章の段落や関係性を把握することも得意ではなく、必要に迫られてやらざるを得ないといった感覚でやる。抽象化のうち、法則的なものには弱いが、しかし一方で構造的なものには興味がある。



それは文章そのものの構造についてではなく、何らかの対象がもつ構造について、文章にすることへの興味だ。それを目的とする場合に限って、造語を生み出すことも含まれるかもしれない。ただし、その構造に対する解釈というものは客観性を持たず、どうも、自分の中にすでにあるものを投影しているに過ぎないような気もする。答えありきで、目の前のものを強引に結びつけてしまうということで、構造そのものに対して冷静に分析ができるということではない。厭世の預言者が、何でも滅亡の兆候だと思ってしまうような節がある。



もう一つは、「その通りにやることができない」ということがある。目の前のものをそのままに表すことができないか、できても気にくわない。自分が何かをする時に、自分のクセみたいなものが出ていないとつまらないと思う。これは他人と何かをすることにまったく不向きであるということで、要求通りになにかをすることが全くできない。自分一人の狭い世界においてのみ、生きることができる脆弱性と言い換えることもできる。



ざっと挙げることのできたもの、「法則性はないが記号のようなもの」、「構造について文章にすること(解釈すること)」、「その通りにできない」、これが自分の能力や才能というにはあまりに使いづらく、しかし間違いなく備わっている特性である、と仮定しておこう。



次に、ではこれをどうやって外の世界に存在する作品体系と組み合わせるかということになる。厳密ではない構造を持ち、歪んで、記号めいたイラスト。ひねくれて、体裁を保ってはいないが、何かしらを断片的に解釈しようとするテキスト・・・それとなく聞こえ良くしようとしてみたけれど、要は欠陥品である。



しかしここでは才能があるかどうか、という議論はしない。魅力と意義を持たず、徒労でしかない作品づくりを、客観的な価値の依り代にするためには、どのようなチューニングが可能なのか。またそのための訓練や知識の獲得も、精神活動である以上は、自らの特性に従って行われるものである(あるいは、行われないものである)ため、それらをどう現実の行動に落とし込むか。



そういう意味のないことのうち、さらに意味のないことを考えているのが好きだ。それを延々とやっている間だけ、自分が生きていて良いかどうかということを忘れることができる。頭の中を無意味で埋め尽くすことで、善悪の彼岸にたどり着いた際の振る舞いを予行していると、そのうちそれが、ほぼ到達そのものになる。そういう夢を、現実という夢の上に覆いかぶせることができる。二つの幻想を分けるものは認知だが、そのどちらでも使用される言葉は、覆い被さりの接着面から両者を行き交うことになり、その運動が毒のように認知の働きを弱める。目を開けたまま眠り、うわごとによって挨拶する。



現実というか、外の世界の要求に、頭の中の性質を組み合わせて答えようとするのと同じ重要さで、頭の中の性質の要求に、外の世界を組み合わせるということができないかを試してはいる。かなり旗色は悪いけれど、外側でも内側でもないもの、エレベーターを乗り降りする時の、指2本分空いた隙間のようなものを経由しているということを手がかりに、あるいはそれに対して、跳躍というにはあまりに小さく、誰も気に留めない一瞬の境界移動(別の階に降り立つことではなくて、その直前の部分的な浮遊)を、大げさに誇張して騒ぎ立てることで、たとえば見たことのないものの模倣などをできたらと思う。

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