駄文2018/02/13

・カフェインと砂糖でなんとか


朝のうちは腰痛がひどくて、これはもう今日はダメだなと思っていたけれど、職場に常駐してあるコアップガラナ2Lをちびちびやっているせいか、昼過ぎにはだいぶ楽になってきた。イラストの投稿、英語でゲーム、うめきながらもAccessの座学までクリアできたので、最近にしては及第点かなと思える。



その一方で、短編ブログの再開用ブレストと、3月からの有料投稿の準備が滞っている。これは難易度がいくつか上なので、明日の野外演奏が終わってから、本腰を入れてやっていこう。



今週に入ってからは、ゲームにかける時間がずいぶん少なくなっていて、今はもうログインボーナスを獲得するだけになっている。現実のクエストを進めていくことにウェイトがかかっていて理想的な状態だけど、何かトラブルがあったり、理不尽な目に合うとすぐ逃避するので、一時的なものだと思われる。



・休み過ぎ人間


奥さんが実家の家族と買い物に行ったときのお土産に、「休む技術」(著:西多 昌規 大和書房)という文庫本を買ってきた。帯に『その「忙しい」、いつ終わるんですか?』と書いてあって、うるさいわ!と声を上げた後で、逆に自分ほど「忙しくない」人間もそういないのではないか、と思い直す。



せねばならぬことがあんまり無くて、あるいはあっても手をつけず、一日中自分の好きなことをやっている人間が、これ以上「忙しくなくなる」ことが可能なのだろうか。その場合は、もう「意識を失う」とかしか残っていないのではないか。



また、好きなことだとしても、一つのことに長時間打ち込むことができず、そのため色んなことに手を出しているので、文章を書いているときは、絵も楽器もプログラミングも「休んでいる」ことになるし、絵を描いているときは、文章も楽器もプログラミングも「休んでいる」。そう考えると、やはり自分は一般的な人よりも休んでいるか、休み過ぎているように思えてならない。



一方で、忙しくないのだとしても「時間が足りない」と感じているのも事実ではある。するとこの本には、それを解消してくれる手がかりがあるかもしれないと思って目次を眺めると、どうやら会社勤めの方を想定している内容のようなので、まあ、軽い気持ちで読むことにしよう。



・何が忙しさを生むのだろう


自分の場合に限っては、仕事でも趣味でも、その忙しさの原因は概ね能力の無さである。もっと技術や知識があれば30分で済ませられるはずことに、1時間以上かかってしまい、しかも集中力と記憶力の無さがそれに拍車をかける。



仕事でいえば、究極的にはその作業をせずに成果だけを得られる状態を作ることがゴールである。そのため自動化や省力化のために時間を割くべき場面があるけれど、趣味では能力そのものの向上を目的に含めるので、例えば訓練を自動化したり、省力化してしまえば効果も失われてしまう。



するとやはり作業時間を短縮することは難しい。設備投資を効率化につなげるということは、実現されたとしても直接的なものではないだろう(例:新しい椅子で体への負担が減り集中力が持続するなど)。従来のように、忙(いそが)しくというよりは忙(せわ)しなく、一日の気力と体力と時間を使い切り続けるしかなさそうだ。



それが例えば、「分担」とか「交代」といった、他人との協働を拒否することの対価なのだろうかとも思う。一人で何かをすることで生きていきたいけれど、自分が一人でできることなんてたかが知れているのは、覆い隠しようのない事実である。たまたまそれが、他の人と何かすることに比べれば遥かにマシだというだけで、どちらも極端に程度の低い話ではある。



当初は訓練的な日課を消化することで、能力を向上させようという意図があったけれど、継続そのものが力になるわけでもないし、それが要求に答えられる水準であるかどうかということは、自分で決める事の範疇を超えている。



また、その水準が自分で決める事の範疇を超えているということ、他人の判定するところであるという構造自体が、基本的に他者との関係を避けようとしている人間にとってはマイナスになる。避けるとはいっても、関係性を拒絶しようとするとそれは「拒絶している」という関係性になってしまうだけだから、拒絶も否定もせずに、しかし盲点のように消えるようなやり方があるはずで、それを見出せればと思うけれど消え続けていると金銭や社会的な意味が枯渇し過ぎて死ぬ。



・悪いやつだった


前提として、自分は死にたくない。自分はまだ死にたくない。死にたいと思うことはあるが「このように」ではない。ということがある。すると生きていくことになり、その時間をどのように過ごすかというと、自分のやりたいことを「忙しなく」やり続ける以外のことをしたくない。それを休むということは、自分が生きているということ、死にたいわけではないということを脅かすからだ。やりたいことをやっていないということは、生きていたくないのではないか、死にたいのではないか、ということになるし、そのための証拠や材料は数多ある。



もっとシンプルな構造として、「やりたいことをあれこれやっている間だけ「死にたくない」と思える」、ということがある。ということは結局自分が生きていることが許せなくて、そこから目を逸らすために、自分の好きなことを延々とやったのち、頭も回らないくらいに疲れて眠って、すぐに「日課」を開始したいということにつながっていく。休むこと、忙しくなくなることが、やがて自分を殺すのだということに薄々勘付いているということになる。



では必要なことは何かということになるが、それは「安全に休む」ということである。生きるということを継続しつつ、休む。忙しくなくても揺るがされない生き方か、考え方をする。これができれば、休んでもいい。



しかし・・・ここで発生する「死にたい」という気持ち自体が、疑わしくはないか?怒りが二次的な感情であるように、希死念慮も、恥や後悔などによって生じる二次的感情なのではなかったか。そして、そのことについては、随分前から考え続けて出た結論があったはずである、それを思い出せ。



思い出した。「自分は許されない悪人であるが、欲求として生きており、欲求として悪事を働きたい」だ。自分を裁こうとする自分をこれで無効化することができたはずだ。すると休むことによって頭をもたげてくる希死念慮はフェイクである。もちろん、恥と後悔による苦渋を繰り返すことには変わらないけれど、それを何らかの極端な行動に紐付けする動機が、この文言によって失われる。



自らの正義で自らを裁くくらいなら、悪人としてコソコソ生きる。そういえば他人との直接的な関わりを避けるということには、この理屈も理由になっていた。悪人として生きるのと同様に、悪人として孤立し、悪人として休み、サボり、(自分との)約束を破る。それでいいと決めたのだった。

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