駄文2018/02/12

・頭の中が忙しい


今朝から思い立って一日のタイムスケジュールを立ててみたものの、まあうまくいかない。見積もりは甘いわ、予定外の用事が入るわで、結局2時間遅れてしまった。座学は夜の用事から帰って来てからにしたけれど、おそらくそんな体力は残ってもいないだろう。



それでも脱線は少し減ったので、実際にうまくいくかどうかは別にして、予定を立てること自体は良いことのように思われる。以前は自分のことに使える時間が無さ過ぎて、予定を立てること自体に拒否感があったけれど、ある程度時間が確保できる限りは、時間割を作って振り返っていこうと思う。



どうして他の人たちは、同じ一日という時間をもっと効果的に使えるのだろうと思うけれど、それはやることの範囲を絞っているからで、こんなに頭の中が散らばっていて、それをそのまま日課に反映させるような人はいないか、あまり表に出てくることが無い。



しかもやることをさらに増やそうとしているので、これは無理筋というものだ。どこかで組み立て直す必要がある。とりあえず大きな用事がひと段落したら16日(金)の午後に週次の振り返りと合わせて、アプリのリピートタスク整理をして、日課の順番見直し(順番に含めない日課の選別も含め)をする。あとは、職場の机が乱雑になってきたので、これを何とかしよう。



いつも就寝前に次の日の準備をしておこうと思うのだけれど、疲労困憊なので出来ずに寝てしまう。それなら朝の着替えのタイミングで、翌朝の着替えを用意してはどうだろうか。朝一番であればそれくらいの気力はある。



SNSへの脱線については・・・投稿すること以上の暇つぶしはないのだから、眺めている段階で暇つぶしよりも良くないことをしているという自覚を持とう(あくまで自分に限った話です)。あとは日中の姿勢について、dueで定期的に注意を促すようにしたけれど、これも形骸化してしまったので、別な策が必要だと思う。



脱線がどうして発生するかというと、目の前の作業がつらくなってくるからである。その理由は、①その作業自体のつらさ、と②その作業をする体のつらさ、に二分することができる。この体のつらさの方は、姿勢の悪さが原因なので、脱線したらすぐ柔軟体操、という導線を作ることができればいいのではないか。



脱線が発生するもう一つの理由は、あまり大きな声で言いたくはないけれど、自分の投稿に対するリアクションをこまめにチェックしてしまうことである。反応や閲覧数を何度も確認していることだけでも時間のロスなのに、しかもそれがそのままSNSへの脱線につながってしまう。これらをどうにかできれば、もう少し効率的に作業できるのではなかろうか。



・死の代替品


思えば会社員の頃も、学生の頃も、無限に脱線していた。携帯がない時代はノートの脇に絵を描いて、最終的には授業中寝て過ごしてばかりいるようになった。前屈みで胃腸が圧迫されて、消化が弱くなったりゲップが出やすい体質になってしまったばかりか、講演会や会議などの場では反射的に気を失うようになってしまい、この時点で社会人としてアウトだった。



すると、「他人に直接関わりたくない」とか「人に頼まれたことは異常にしたくない」という自分の性質は、そういった社会人としての困難さから生じた二次的なものである可能性がある。10年近く就労したにも関わらず、何の価値も生み出さず、何の意義も見出せなかったという経験が、徐々に厭世的な性格を形成したのであるとしたら、さらにもう10年を費やすことによって、社会性を取り戻す(元々あったのかは疑わしいが)ことができるのかもしれない。



だけど、あまりそちらの方向に魅力を感じない。それよりも、「社会性を失ったまま、社会との齟齬を解消できないか」という矛盾に近い命題のほうが、自分に合っているような気がする。



視力をメガネで補うように、社会性とよばれる性質や能力を、装置や手法によって補うことができれば、これは理論上可能ではある。しかし、社会性は視力のように単一の能力ではないし、視力のように明確な基準をもって測れるものでもない。すると「これを使えば大丈夫」というツールを期待するよりは、「自分はこれでなんとかいける」というツール群の組み合わせを見つける方が現実的であるし、それを見つけるために選択できる方策は試行錯誤しかない(莫大なお金をかけるという方策もあるにはあるけど選択できない)。



従来求められた社会性とは異なった社会性を、従来求めていた社会とは異なった社会に向けて構築する。そんなことが実現できたものなら、それはもう「異世界転生モノ」級のパラダイムシフトが主観的には発生することになり、「転生」の例えが適用できるように、あくまで社会的に「死んでしまう」ことができる。



ということは、自分がずっと抱えていた「死にたい」という気持ちは、この大掛かりな儀式の達成によって解消されはしないだろうか。肉体を生贄に捧げるのとは別のやり方で、すこし別の世界に、すこし別の人間として生きることができる(しかも都合のいい部分は「引き継ぎ」できる)のであれば、このあたりが妥協点と言われても十分に納得できる。本格的な「死」は、そのもう少し後でも構わない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る