駄文2018/01/22

・やっとここまできた


午前中をお絵描き系、午後をテキスト系、ということで作業を分けてみたところ、初日の今日は進捗がいい。夕方にはそれ以外を片付けることができれば、夕食までにデスクワークが完了するので、あとは楽器の練習のみになる。



余裕が出てきたせいか、悪い虫が騒ぎ出す。テーマが定期的に発表されて、それに沿った作品を投稿するタイプの企画に参加したくなってきた。しかしワンドロやお題ものに挑戦してみて、基礎的な能力不足で恥をかきまくったのではなかったか。現況はさほど変わっていないので、これは少なくとも2月まで保留ということにする。



カフェインについては、肝臓への負担という観点でいくと栄養剤がダメで、コーヒーのみであればある程度は大丈夫であるようだ。とはいえ朝・昼・晩の3回以上は避ける。



不眠には口に貼るテープが面倒だが最も効果がある。運動はデスクバイクで、時間があれば腕立てやらスクワットやらをするので十分だろう。



また、体調不良に備えて、日課をさらに4つ程度の階層に分類した。優先順位の低いものを犠牲にしていくことで回復のための期間を設ける。状況に合わせてタスクの一部を不可能と諦めてしまうほうが、しようと思っていたのに(できると思っていたのに)できなくて、悲しみに暮れて床に伏すよりも、多少生産性がある。



ここまでくるのに10年以上かかった。こういう性質を、学生の頃に身につけておけばどんなに良かっただろう。時間は巻き戻らないので、重く膿んだ後悔を抱えて日々を過ごす。



・失敗と学習


どうも手酷く失敗しなければ大事なことが身につかないのだけれど、これはあまりに非効率的ではないか。失敗をすることなく、あるいは極めて小さなものにして、学習する方法があったとして、それが広く知れ渡ることはなかったものか、と思ってしまう。



しかし、なかなか難しいことだと思う。個人の性質は多様過ぎるほど多様で、したがって失敗と対応策も無限にあり、その個別性は「広く知れ渡る」ことと相反する。



あるいは、ここは既にそのために幾つもの策が打たれた世界なのかもしれない。義務教育があり、娯楽があり、他者との関わりがあったうちに、自らが失敗するのとは違う形で、学習が行われていたのだとしたら、その及ばないところでも失敗が発生しているということであろう。単に対応策が追いついていないだけなのかもしれない。



しかし、仮にまったく失敗をしないで学習することができたとすると、そこには一つ大きな危険性がある。いくら学習を積んだとしても、それだけでは「失敗」そのものを学習することができないのである。



こんなことは詭弁ではないかという気もするけれど、それまで大きな失敗をしなかった人が、思いもよらないことで身を持ち崩すという話は、ない話ではない。失敗そのものを学習し、しかしそれは小規模のものである。そういうことが可能な世界があるとしたら、例えばそれは子供の頃だと言えるのか?



・失敗の対価


いや、確かに未成年であれば社会的な責任を負う割合は軽いかもしれないが、そこは人格形成が行われる場でもある。今後の生活に重要な示唆を及ぼす失敗というのは、少なくとも主観的に「大きな失敗」である必要がある。そのインパクトなしに感情と結びついた記憶学習は成立しがたい。するとその「大きな失敗」によって損なわれる人格の部位があるはずである。



なぜならそれは失敗であるから、それを繰り返さぬよう忌避するという判断のために、犠牲になる人格の朗らかさがあるからである。もちろんそれは乳飲み児が誤飲しかねないような、危うい朗らかさでもあるのだけど、それが必要以上に削り取られるというを、失敗は要求する。窒息しないよう、孤立しないよう、生き延びるための当然の対価として奪い去る。



するとすべての成人は、失敗から学び、つまり怯えて生きていることになる。「すべての成人」などと言うと主語が大きくなり過ぎるので、まあ、自分がそうであるということであれば、これは間違いないといえるだろう。ではそれは、学習によって去勢された哀れな人間(あるいは人間もどき)であると揶揄されうるのだろうか。



人が人を見下す心情を否定することはできないけれど、きっとこちらほど失敗をしていない人にそう思われてしまうのであれば、卑しい自分は「お前もそのうち痛い目を見るぞ」などと思ってしまいそうだ。しかし人を呪わば何とやら。今後もせせこましく生きていくにあたって、これ以上徳を失いたくない。何かもうちょっと良いことを思うようにしたい。



・失敗した人間として


一つはこれが、他者にとっての学習の場である。と捉えることである。こんな失敗をしました。あるいはしています。という情報が公開されて、受け手によって避けるべき事態としてインプットされるのであれば、いわゆる反面教師として、その後の一助になるかもしれない。「お前さんも気をつけておくれよ」というわけである。



または、学習ということに限らず、環境や思想について、受け手との間に大きな差異があれば、彼方がいかに恵まれた状況かということを省みてもらえる。ということは期待しすぎだろうか。これを考えると、同じ程度、似たような状況の人に示唆できるものがあるのかもしれないとも思う。



いずれにせよ、気をつけないといけないのは、自分のほうから押し付けがましく教訓や説教をしないようにすることである。思いつくままにやって、何かがそこに見出されることがあれば、それは受け手の徳であって自分のものではない。人に言って聞かせたいことは山ほどあるけれど、それは自分が他人の口から聞きたいものでは決して無い。そしてそのこともまた、いくつかの「大きな失敗」から学んだことであったはずである。

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