駄文2018/01/06
・天国
時の流れの止まったような場所に避難して、おおむね自分の好きなことばかりしている。天国というものがあればこのように安寧で気怠い場所であるだろうかなどと思うけれど、ずいぶん志の低い天国があったものだ。
そのせいか、ある程度予想していた通り、漫然と過ごしてしまう時間が増えてしまった。これでは一時的な状況に寄りかかって、抱えている問題の根本的な打開につながらない。しかし焦って無理をしても反動がひどいので、緩慢に作業を続けていく。
脱線そのものを進捗に含めて計画を立てればいい、ということはだんだん分かってきて、あとはその日一日以上のことは考えられないという自分の習性からも、目を逸らせなくなってきた。それで今は一日の日課を、楽勝なレベルから毎週ごとに追加するようにして、十分な進捗が維持できるようになってからはじめて、数日かかる作品にとりかかるつもりである。
・公の場から離れる
先日のTwitterに「#文学を読んでも救われなかったあなたへ」というのがあったので、ついタグ付きで投稿したものの、思うところあって削除した。文学がどうこうよりも、冷めた態度でも意見の押し付けでも、少なくともTwitterという「公」の場で、自分のような人間が発言し、それが少なくない数の人たちにダイレクトに読み取られてしまうということが、どうなのだろう?という気持ちになってしまったためである。
ここで言う「公」というのは、望む望まないに限らずに、衆人の前にその姿や主張を晒してしまう性質を言う。この駄文群も自身のTwitterアカウントから一応のリンクを張っているものの、そこにはURLという「扉」を、開くか開かないか、というワンクッションがある。他人の拡散や検索などで、突然その主義主張が、丸ごと視界に飛び込んでくる、という状況は想定していない。
そういった、いわば特殊な場で自分がものを言うことをこそ避けるがために、隠遁生活を送ろうとしているのではなかったか?社会との距離は一般的な程度の倍は取って生きていきたいと嘯いているくせに、大路で自分の意見を高らかに主張して、道行く人の邪魔をしていては、はしたない。
一方で誰かが自分の考えを滔々と述べているのを、気付かれないように眺めるのは好きなので、ハッシュタグそのものが悪いということは一切言いたくない。それに将来のうちに自分が演説者側になることがあるかもしれないが、それはあくまで社会との関係性が大きく変化した場合の話である。
・でも何か言いたい
そういう引っ込み思案とは別に、自分の考えていることを、どこかに言い表したいという欲求が、人一倍強いから厄介である。一応の解決策として、誰かに見られそうで見られないちょっと見られる場所に投稿する、ということを選択している。
初めのうちこそ、子供の頃に自分の話を誰も聞いてくれなかったという原体験による、鬱屈した感情の噴出の装いを呈していたが、ひと月も経てばそういうものはほぼ成仏してしまい、今はただ、書くために書くばかりである。こんな不埒な文字列に、目を通してくださる方がいることへの感謝を、出来るところまで証明していこうという気持ちもある。
あとは、自分の考えを多少変化させてでも、外側に記録しておきたいということがあるかもしれない。どうも非公開よりも公開している文章のほうが、恥ずかしさからか見直すことが多く、それで自分の考えを客観的にとらえることができている節もある。最近読んだ本では、そういうことは知の整理術としても、かなり良いということが書いてあったし、何より自分に合っている気がする。
一方で、誤字脱字や表現の間違いが大量にあるので、これは修正の効かないもの、たとえば紙媒体のようなものには、ほとんど適性がないようにも思われる。そんな機会があればの話だが(というか、そういう機会を想定してしまうあたり、やっぱり何か言ったことが人に伝わったら嬉しいという調子の良さが隠しきれていない)。
・また仕事の話
さて、ではそのように公の場を回避したまま、何らかの方法で持続的に生活することが可能であろうか。肝っ玉も無いので投機関係も除外するとして、なるべく人に会わず、バズりもせず、淡々と一人で作業をし続けることで生きていけないか、そういうことを考えている。
Youtuberという職業の性質によって、「好きなことをして生きていく」という言葉が、すなわち人気ものになるという意味であるように勘違いを起こしていたが、別にそんなことはないはずだ。もちろんそれは「好きなことをして生きていけるほど好きなこと」があるということが前提になっているし、仮にその点をクリアしたとしても、過当競争へ身を投じれば生き残れるかどうかには、外的要因(人気がある、政治力がある.etc)が大きくかかわることになる。
外的要因そのものを避けるという態度は得策ではない。インターネットなどの情報インフラや家庭環境、地域性なども外的要因である。その最たるものが「社会」であるのだけれど、であればこれは避けるというより、その距離感やチャンネルを、自分に合うようにチューニングし続けるという表現のほうが、おそらく正解に近い。
ここで「好きなこと」とは何かをもう少し掘り下げていこう。それは間違いなく嫌いなことではない、と言えるだろうか。いや、嫌いでもあるし好きでもある、ということもあり得る。これは仕事の好き嫌いが、仕事そのものの属性ではなくて、そこに含まれる場面に生じる「好き」「嫌い」の総量と性質から総合的に判断されるものであるためでないか。
では「好きな場面を送って生きていく」というのはどうだろう。これは「好きに生きていく」とも違う(好きに生きていけば、その責任も自らの負うところである。したがって「こんなはずでは」という「場面」に遭遇することもあるだろう)。「好きなこと」をしているのが「好きな場面」であれば、それで生きていく。「好きなこと」に関わりがなくても、望ましい「場面」を維持または頻繁に現出させることができれば、それは望ましい生き方ということになる。
しかし・・・それでは寝るのが好き(寝ているという場面が好き)な自分の場合は?理想は「眠り続けながら生きていく」ということになるのか?断じて違う。これは寝ることが好きでも、人生を賭けられるほどに愛しているわけではないからなのか。いや、単に極端すぎる例えだったか。
・ひとまずのまとめ
「場面」という言葉はあくまで暫定的なもので、もっとふさわしい表現があるような気がするけれど、「好きなこと」というものを考える際の補助線になりそうではある。それとは別に、「好き」という表現の振れ幅や、いくつかの性質(どうも異なるものが、一緒くたに「好き」と表現されているように思える)をもう少し考えていくことによって、何かより良い言い表し方があるかもしれない。
ただし、それは「自分にとって」という域を出ないものであるということを忘れないようにしないと、意図せず「社会」につながってしまう。そしてそれもまた、単に自分にとって忌避すべきものであるだけなので、かえって別な誰かがこういうことを考えるほうが、もっと自由にできるのだろうとも思ってはいる。
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