駄文2018/01/05
・「ない」をもらう
ほとんど理想的な環境に恵まれると、ボトルネックは自分の怠惰と緩慢さになる。それに特効薬を求めるのではなく、小さく改善を加え続けていくということは、程度の低い苦行である。もちろん程度の高い苦行よりは良いのだけれど、その成長(見かけだけのものだとしても)過程を、多少でも楽しむにはどうしたらいいのだろうか。
一つは具体的な成果を得ることだ。それも「自分へのご褒美」のような偽計ではなく、褒賞にあずかることや、対価を授かること。しかしそのためには最低限でも他者の要求に応えるか、それを上回る何かを提供できることが前提となっており、したがってこれは今しばらく皮算用できるものではない。いただいたものがあれば天と人の恵みと感謝して、胸に静かに納めておくのがよくて、得られないことで寂しく思うことは、これはやや傲慢である。
なぜなら既に「もらわない」を貰っているからだ。SNSであれば拡散されないこともそうかもしれない。返事が無いのが返事、打っても響かないのが響きそのものだということである。
・リアクションするもの
自分が「いいね!」めいたものを他の誰かの作品に付ける時の感覚が2種類あって、「これはどうかしてる。どう考えてもこれはすごい。こういったものを自分が対価を支払わずに享受できることに、むしろ怒りを覚える」という極端なものと、それ以外は「これは自分の中で『通った』」というもので、後者のほうが多い。
リアクションをするかどうかの判断が、減点方式だからかもしれない。その作品が良いと思えたということは前提で、そこから「自分の好きな種類の人たちを過度に傷つけないか」とか「普段の発言がどうか」とか一番大きいのは「自分がこの作品にリアクションすることで多少でも作品の性質や意味合いを損ねることがないか」とかを考えて、概ね大丈夫と判断した場合に、反応を顕在化させる。
そうでない場合は相手に何の通知も届かないように、Evernoteにメールで投げておいたりする。だから自分がそうであるように、こちらが送り手になる場合は、感じ取れないような形で何らかの反応が起きているのだろう、と考えるようにしている。
その考えをさらに延長させていけば、何もリアクションする主体は人間に限らない。だいたい「誰かが作った自動収集装置」とか「これから生まれてくる人」とか、「擬人化され得る因果性や象徴」とか「精霊」とか「妖怪」とか、人間であると厳密に言えるかどうかを問題としない人たち(じゃなくて者たち)のほうが、実は鑑賞する側の総体としては多いのではないか。
電気機械を経由したからといって魑魅魍魎を回避できるかといえば、それはむしろ逆である。都市がそうであるように、異形のものどもは人の心を横切るのだから、いくら整然と明瞭とされていた環境であったとしても、いやそういった環境であればあるほど、活動を露わにする。人間が整然さと明瞭さのボトルネックになる。
・集合体と仮定
芸能人やアイドルのお仕事をされている方々の写真などを眺めるに、「なるほど、ここで紹介されている◯◯さんというのは、複数人が連携して作り出している一つの作品なのだな」と思うことがよくある。もともと一個体としての人間だって、寄生と増殖によって生じた共同作品なのだから、物語やアニメーションやビデオゲームの登場人物と、そういう観点では大差がない。
もちろん人間や作品は、それぞれの共同体としての集合と統合の階層が違うのだけれど、ではそれぞれの「一」共同体としての区切りはどこまで確固たるものなのかといえば、それを判断する主体も同等である以上、曖昧さを回避できない。
その議論を暫定的にでも進めるために、主体が抱える曖昧さというか、もにょもにょした何かを、いったん無いことにして外的存在とみなしてから判断を行うという偽計によって、現代までとりあえずの分、技術が進歩してきたなかで、そのうちに「見てるとA、見てないとB」というような、観察者の態度によって客観的な実験結果が異なるという事象を回避できなくなるのは、当然といえば当然であるような気もしてくる。
嘘、見せかけ、ごまかしの類が非難されるのは、その構造や動機が「しょうもない」場合であって、それ自体が他者と自己を騙ることなく使役されれば、半歩先までものごとを進めることができたりする。何らかの劇薬のような印象に近い。
しかしこの言い回しは秘められた何かに対する、自己弁明にならないか?それを秘めたまま許しを乞おうとする心があるのは白状するとして、それが実現するということがあるのか、あるいは実現することが良いことだと言えるのか?そもそも良し悪しなのかも分からない。
・うずまき
動的な思考の渦を片手ですくい取れば、そのたび渦は崩れても、やがて元のかたちに戻る。凍ったように身動きしない渦であれば、手を差し入れて初めて渦だと分かる。それは何かが維持されているのではなくて、何かが維持されているということを見出しているに過ぎない。
それは「維持」が「状態」で、状態は見出されるもの(=幻視されるもの)だからだとすると、では「渦」は状態か、そこで「渦を巻いているもの」そのものは状態と、状態ではないもののどちらか、あるいは両方なのだろうか。
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