駄文2018/01/04

・入眠時幻聴幻覚


もう息も絶え絶えという感じで、これから寝るまでに長文を作れるような気がしない。しかしそういう時こそ、無意識にかけていた制限が外れるか何かして、面白い文章が書けるのではないかという淡い期待もある。



もう既に今日会った人の声もかすかに聴こえるようで、脈絡のないイメージもちらつくあたり完全に入眠時幻聴や幻覚の類も発生しているのだけれど、そういう力を持て余したまま、特に何にもなれず(虎にもなれず)ぼんやりしたまま過ごしているうちにある時死ぬ。



生きててよかったとか、生きていることに意味があったんだということで、何を安心しようとしているのか、むしろそういうものは、自分に取り憑いた何者かの求めるものではないか、などと思ってしまうが、では、取り憑いた何者かが全員成仏したとしたら、その肉体に何かが残っているとでもいうのか。



人格は生まれ出でたものがまず生物的な特徴(把握反射とか)を足がかりに、身の回りの同類の振る舞いを写し取って形成されていくように思えるし、前に少し話した通り、人間を人間たらしめているものが、肉体によって区切られているといって果たしていいのだろうか(いいのだけど、それを取り払うことによって解決できる諸問題や新たな発見がなかろうか)とも思う。



しかし言葉を司るものが言葉では表せ切れないように、人間を司るもの(神さま?)もまた人間にとって不可視・不可侵であるということに通じてしまう一切の思考は、脆弱な個体たる己の身と心を守るために閉ざされてしまう。そこを開いてしまう人たちはやんわり淘汰されていったか、歴史の中で特殊な役割を任命されてその重荷に耐え苦しんでいったのではないかしら。



そんな特別な存在でなくても、誰にも頼まれなくても、勝手に苦しんだり身をよじったりして生きていくことに、世界に一つしかない形を持った、世界にありふれている葉の一枚として、そよいで枯れて、舞って朽ちるだけであるならば、どうも分不相応なものが、思考にはある。



いくらでも、どのようにも考えることができるはずなのに、どうして苦しみを取り除くことができないのか、というと、その苦しみこそが、かけがえのなさにつながっているという直観があるからで、それを手放してしまったもの、一切皆苦であればその一切を手放した者の様は、夜中に鏡に向かって話しかけ続けた人間の末路のようなもので、鏡でなくても文字で、画面で、声や音楽で、他我の区別を失ったもののように救いが無い(既に救われているから?では救いとは何なのか)



人が幸福を追い求める様を10段階に表した「十牛図」の後半はやはり面白いというか、クセのあるもので、「幸福も自分も存在しない。存在しないということが存在しない」という状態が最終段階かというとそうでもなくて、その後に「あるものはみんなそのまま良いものだなあ」があって、その次がなんと「ついでにみんなに良いことをしてやろう」だったりする。悟りを開いていてもそこで完結するのではなく、得体のしれないアドバンテージを持った俗人として世間に関わるということが究極に位置していて、それを知って拍子抜けもしつつ、でもそうかもしれないと思う。そういえば、そういう人たちがあちこちに居たり居なかったりする。



何かに対してそれは何であろう、というのは小さな問いである。そうではないただあるだけの何かに対して、ある人がいくつかの問い(それは言語化されず、漠然とした引力として理解されるかもしれない)を想起するのだとしたら、そのあるだけのものと、その人との間に大きな問いが生まれている。あるいは問いを通じて別の世界(別の可能性)が開けているという言い方をしたいような気がする。しかしここで可能性という言葉を使ってしまうと、あらかじめ用意された選択肢のチャートのようなもの(それが無数であればなおさら)のどれか選ぶような印象になっては困る。しかし「潜在性」という言葉を「顕在」させるのも、なんだかどこかもっと前の段階で自分が失敗をしでかしているような気がしてしまう。



別な世界が開かれているといっても、それは何かの門をくぐるように、別の場所へ「移動」するとか、別のもの、別の状態へ「変化」するということとはちょっと違って、それらは元の場所、元のものとその状態でありながら、そうでないものでもある、その両者間に時間の軸による区別もなく、あるもののまま別のものであるというか、でも「まま」は既に時間というルールに寄りかかっているのでそこからして違う表現を、同じ表現のまま違う意味を、意味、違う音、別の誰かが発する同じ意味の言葉、異国の言葉、それも舌足らずの子供が舶来品を自分の世界で支配せんがために、聞いたばかりのおかしな発音を笑いながら連呼するような状態、場面である。その場面を構成するものが、人体の臓器や皮膜の内側のもののように、ぐるんと裏返ってしまった世界、しかしそこに発生する複数の中心とはなんだ、なぜ太陽を、または銀河の中心を差し置いて、たとえばテニスボールの中心が中心となって裏がえるのか、それは便宜的なものでしかないが、では便宜的では無いもの、それを人間が感じたり、理解できることがあるのだろうか。

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