駄文2018/01/02

・デカフェでしんどい


色々と手違いがあってか、日中時間ができたので楽器を触る。弟が帰省していたのでいいところを見せたかったがうまく弾けず残念。帰宅して夕食を済ませるともう何のやる気も起きないので、昨日にならってデスクバイクを漕ぎ始めた。



あまりにも何もしたくなさすぎてつらいけれど、カフェインを断っているのが原因だと分かっているので深刻にはならずに済む。しかしこんな調子が今年も続くのであれば、生活の仕方を改めなくてはならない。



エアロバイクは運動というよりも、体温上昇によって自律神経の働きを整える効果があるようだ。これは温泉も同様で、そういえば最近行ってなかったので、これが不調の原因でもあるかもしれない。



・なかなか普通に頑張れない


頑張りたいのに頑張りたくないのはどうしてかというと、おそらく傷つきたくないからだと思う。では、傷つくことを回避しながら頑張る方法はないかというと、一人で頑張ることは一つの方法ではある。しかし、自分の振る舞いに傷つくということが大いにあるので、これについてはもう、回復のための時間を割くということぐらいしか対策はないのだろう。



今の状態がけっこうそれで、他者との関わりを薄くしても、人前に出ないように心がけていても、自分の行動に傷つくことを防ぐことはできない。では行動しないでいるのはどうかといえば、これでは本末転倒だ。



余計なことを考えずに、目の前のことに無心に打ち込めたらどんなに楽だろう。カフェインは一時的にその状況を作り出してくれるが、ある程度から先の部分については、倦怠を巻き起す効果のためにかえって足枷になる。



いや、余計なことを考えること自体は別に問題ではなくて、それが強烈な不快感をひきずり出してくることをなんとかしたい。記憶や思考と、感情と感覚を切り離したいのだけれど、これは扁桃体の働きを鑑みるになかなか難しそうだ。



・「求められ」との関わり方


30年超生きてきて、何ごとも成し得ることができなかった人間が、その先に期待できる最大上限は、何事も成し得なくても成立する生活である。何の意味も価値ももたないことだけをして、生きていくにはどうしたらいいだろう?



それは社会的に、あるいは他者に見出されるという種類の意味や価値である。自分がどのように感じるかということは、これはもうずっと前から外側の世界との評価とは相関がない。その原則にしたがって、何も見出されないことをのみし続けて生きていきたい。いや、生きていかなければいけない?違う。これは義務ですらなくて、そのようにしか生きていくことができないということが、ついに明らかになったに過ぎない。



そこで考えなければいけないのは、そのような狂った生活をどのように現実的に維持するかということである。一つは「笑われる」という方向性があるだろう。もう一つはもうすこし範囲を広げて「興味を惹く」ということがある。



今、悩んでいることは、この戦法を選んだとして、そのために前提として必要な露出頻度、投稿数、活動量が維持できそうにないということだ。とにかく何もしたくない。自分で決めたこともしたくなくなることが多すぎる。これでは常人の関心を集めるどころか、気付かれもしないだろう。もしかしたらそのほうがお互いにいいのかもしれないけれど、生活に必要な資源を集める方法がそれ以外にない。



他者との関わりそのものが決定的に不和であれば、あらゆる労働は全て不可能である。お膳立てされた(コミュニケーションを前提とした)労働の対価を得ることができなければ、やれることはただ一つ、「なんだかよく分からないことをし続ける」ことだ。



しかし「なんだかよく分からないこと」はその「なんだかよく分からない」性質がゆえに、対価を発生されることが極めて稀である。求められることを求められてするのであればこれは労働であり、「求め」というコミュニケーションに応答できるのであれば、これは最初から労働するのが幸福で快楽的な手段である。



その回路を断たれた人間には、仮に「なんだかよく分からないこと」を「求められた」としても、それに応えることができない。おそらく求められたものとは違う、もっとつまらなく、的外れで期待はずれの「なんだかよく分からないこと」だ。そこで、その求められ率をあげるために必要なことが「し続け」である。先述の頻度、数、量における「求められ」である。



・社会との和解


ここまで考えると、量もまた、存在しない他者の「要求」として想定されたもののうちの一つである。しかし、内容も、質も、量も、そのいずれも求められていない「よく分からないもの」とその作者がどのような末路を辿るかは想像に難く無い。苦肉の策として、もっとも社会性と関係のない部分に注力することで「求められ」の可能性を広げようとする場合の足がかりが、量である。



また、量や頻度には他の性質とは異なる面白い性質があって、それはそのものが求められている(魅力である)とは限らないという点である。あくまで露出の多さから遭遇の可能性を上げるという意味において量は力を発揮して、その量そのものが魅力となるわけでは無い(逆に、作品の方向性や質はそのものが魅力である)。



ではどうやって「量」を実現させることができるだろうか。これについては今の所、「できるだけ毎日やる」という方法しか自分にはない。とにかく一日に一つずつであれば何とか気力と体力の面から現実的である。これを少しずつ、カエルを釜で茹でるように、徐々に負荷を上げていくことで、結果的には自分のやろうと思うことだけで一日を埋められるようになりたい。



今週から日課を4つから5つに増やした。といっても、「読書」の項目が増えただけなので、今までしていたことを忘れないようにする程度なのだけれど、この水準を落とさないように、また苦痛を伴わない程度の負荷を維持していければ、例え求められる質や方向性を他者に提供できなくても、量だけは自分で納得がいく程のものになるのかもしれない。それは端から見ると単なる頭のおかしい人なのかもしれないが、頭がおかしいのは元からなので、これが精一杯の自己実現であり、社会との和解である。それを目指して今日の日課を消化する。

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