駄文2017/12/31

・年末は毎年体調を崩してる気がする


とにかく体と心が弱い。昨日6時間ほど人前に出ていただけで、今日はもう何もしたくない。しかし行かなければいけない場所が2つほどあるので、お茶を飲んだり部屋にある毛布にくるまったり、なんとか工夫して日課や予定を消化している。



何もしたくないし、誰にも会いたくない。行動そのものをせず、意識を一切保っていたくない。この極端な感覚は無気力や疲労の結果というよりも、怒りに近い。それだけ他人の前に姿を晒すことを忌み嫌っているということでもあるけれど、そもそも自分がしたくない事をすることに対する、この無尽蔵の憎しみはどこから来るのだろうか。



来月で33歳になる。生きて今日までにやってきたことは、全てが残念な結末に終わった。これから先、ゼロより苦しいマイナスの人生を、どうやってやり過ごしていこうかという気持ちのまま新年を迎える。



そして無駄なこと、誰にも頼まれずに、誰とも関わらずにしか何もできない人間が、それでも社会的な要求によって他人の前に現れなければいけない時、極めて不快であるとか、死ぬほど恥ずかしいとかいう感情とは別に、「自分の人生が奪われている」という強い悲しみと苦しみが生じる。



しかし、ここには面白い矛盾があって、いくら自分の人生を卑下してみても、それを奪われることに対する怒りがこみ上げているのだとしたら、怒りを覚える程度の価値を、自分の人生に見出しているということになってしまう。本当に自分の人生に価値がないと思っているのであれば、奪われようが失われようが、むしろ気が晴れるようなものではあるまいか。



社会的・精神的な負債に喘ぎながらも他者を拒絶する、という救いようのない生においても、それを奪われることは許さない。という態度はどのように成立するだろう。いったん「価値」というものの性質を考えてみようと思う。



・自分にとっての価値はある


ある事物の保護や保存、あるいは増強を優先するということが、主体の意志や行動における判断基準になる場合、その事物には価値があるということになる。たとえば自分の人生の保護や保存や増強を、自分の意志や行動において優先しようとする時、自分にとって自分の人生には価値があることになる。逆に言うと、自分の人生の欠損や喪失や減耗を、自分の意志や行動において回避しようとする時も、自分にとって自分の人生には価値があることになる。



人の怒りや不快は望まない状況に陥るか、それを予想する場合に発生する。「自分の人生が奪われる」という状況を「望まない状況」とみなしているのであれば、怒りや不快は当然のものとして生じるが、それは「自分の人生」の「奪われ」を、(望まない状況であるとして)自分の意志や行動において回避しようとする心の働きであると言える。したがって、自分は自分の人生に価値を見出していることになる。



しかしそれでは「ゼロより苦しいマイナスの人生」という表現と相容れない。あるいは、「自分はゼロより苦しいマイナスの人生に、それでも価値を見出している」という情けない告白をせねばならないことになる。では後者のほうを採用したとして、さらにもう少し客観的になってみると、はたして「ゼロより苦しいマイナスの人生」「社会的・精神的な負債に喘ぎながらも他者を拒絶する救いようのない人生」に、どのような価値があるというのだろうか。



・死ぬことに対する不安


一つには主体としてのかけがえの無さが考えられる。どのように最低最悪の人生であっても、感覚の主体性は損なわれない。自分は自分をやめることができない。それゆえに苦しみという感覚から逃れようがないのであるけれど、だからこそ、それがさらに損なわれるような場合があれば、「まったく割に合わない」という種類の怒りを抱くということはあるかもしれない。



仮に他者に取り憑いて、その感覚の主体性を完全に奪うことができれば良いのかもしれないが、それはそれで、素晴らしい人生であればあるほど、それが奪ったものであるという感覚の主体性などに苛まれるのだろう。かといって、もし他者の人生を奪ったという感覚も忘れて取り憑いたのだとしたら、それはその他者の主体性を丸ごと深刻に引き受けたことになり、新たな人間としての苦しみから逃れられないことになるし、逃れたとしてもその先には別の苦しみが待ち構えていることになる。



では死ぬのはどうだろうか。行くあてのない主体性の消失は、苦しみを含めた全ての感覚からの解放にはならないのか?しかし、これには非常に大きな不安がある。先述の「他者の人生を奪ったという感覚を忘れる取り憑き」が、完全にあり得ないということを、その構造上証明できないことだ。つまり、私たちが元は死んだ人間で、それを忘れて他なる生者に取り憑いているのかもしれないということである。



したがって「自分」が取り憑いた人間の死んだことによる悲しみと手間を、今度は別な人間たちとして「自分」が引き受ける可能性が大いにあるということになる。これは輪廻や死生観ということとは少し違う、主体性の有り様に対する懸念である。我々は「見た目的に」「便利だから」一人の人間に精神が一つ(分割されることはあっても一セット)だけあると仮定して、そのそれぞれが複数の個体間を絶えず行き交っており区別されないという可能性について論じていないだけではないのか?



・バテた


ではもし、主体的精神とされるものが、人間個体の柵を越えて飛び交っている何者か(ども)なのだとしたら、「自分の人生が奪われる」という不快感は何だろうか?それは少なくとも主体そのものに属した問題ではなく、あくまで交通貿易上の問題であると言えるかもしれない。さらには自分が他者との直接の接触を避けるということの理由も、そこに関わっている気がしてきた。



しかし、ここまで考えを進めていってしまうと、折からの不調も伴って、もう息が続かない。自分のしんどさの根拠や解決法が見つかればと思ったものの、何だかよく分からない方向に行ってしまったが、何か面白いことを言っている部分もある気がするのでとりあえずここに記録しておこう。

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