駄文2017/12/30


・変な勘違い


「並べてこの世は虚無なかりせば」というのが何の言葉だったか思い出せず、検索してみたところそんな言葉は無い。どうやらイギリスの詩人の作品が翻訳された時の一節「並べてこの世は事もなし」を間違って覚えていたようだ。



「なかりせば」の用法を確認すると、名詞に係るようなので、「並べてこの世『に』虚無なかりせば」としたほうが正しそうな気がする。この場合の意味は「もしもこの世全体に虚無がなかったなら」ということになる。「虚無がない」というのは、どういう意味になるだろう。



「虚無」とは何も存在しないことだとすると、それが「ない」のであれば、この世が全て存在物によって満たされていることになる。ある場所に何もなければ、そこには空間が存在すると言えるので、空間が虚無ではないものとみなされるのであれば、「この世全体に虚無がない」状態であると言えるかもしれない。



また虚無は「全てのものに意味や価値を認めない」ということを指す場合もあるし、古く老師の思想によれば、万物の根源にして本体が虚無であるとも言われているらしい。老師に明るくないこともあり、面白いと感じる点は、「万物の根源にして本体」が虚無であるなら、「万物の根源にして本体」が「ない」状態も、また虚無ではないかということだ。すると「ある・存在する」と「ない・存在する」の区別がつかなくなる。



それにもっと考えてみると「全てのものに意味や価値を認めない」という態度でさえ、それ自体が「意味や価値を認めない」ことの対象に含まれてしまうわけだから、「全てのものに意味や価値を認めないことには意味や価値を認めない」ということになり、これは「全てのもの(あるいは一部のもの)に意味や価値を認めることには全て(あるいは一部)意味や価値が認められる」ということでもある。つまりこちらでも、「ある・存在する」と「ない・存在する」の区別がつかない。



ここで思い出されるのはレヴィナスの言う「存在するとは別の仕方で」という表現だ。ただし、上記の詩の一節のような勘違いを繰り返すわけにはいかないので、せめてもの思いで手持ちの書籍(内田樹 著「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」)にあたってみると、そういえばこの本は、はちゃめちゃに難しいのだった。思考の渦に巻かれて楽しむには良いけれど、こういう時に自分で何かを見出したり確認しようとするには、ちょっと位が高すぎる。



ただあくまで漠然と、自分の理解力でかろうじて捉えられる内容の一つには、「『存在』は『生者』の語法であるがゆえに『死者』を語ることができない」ということがある。これを「この世全体」に対する表現にすげ替えるとしたら、「『存在』は『人間』の語法であるがゆえに『この世全体』を語ることができない」といったところだろうか。(ただし生者と死者の対立関係が、人間とこの世全体の対立関係とは大きく異なるので、ここでは単なる言葉のパズルという意味で「すげ替え」という表現を使っています。)



これでいけば、虚無において「ある・存在する」と「ない・存在する」の区別がつかなくなる理由が少し分かったような気がする。「この世」をさらに置き換えて「『存在』は人間の語法であるがゆえに『虚無』を語ることができない」というわけだ。



だいたい、ここで言い表そうとしているものが「虚無」と呼ばれていて、そこに存在の一状態である「無」の文字があるのが余計なのかもしれない。もっとくだけた表現にすると、「人間(の語法で)は、万物の根源にして本体である『????』を語ることができない」ということになり、なんというか、そうだよね。という気分になる。



つまり冒頭の文句は「並べてこの世は????なかりせば」となる。ドラゴンゾンビが今際の際に宇宙から召喚するものや、女神転生Ⅳ FINALのラスボスが名前を呼ばれる時、全キャラがフルボイスなのに、そこだけもにょもにょした音声になるのを思い出す。



それはさておき、これを現代語訳すると「もしもこの世全体に、????(人間の語法で語ることのできないもの)がなかったなら」ということになる。これは「もしもこの世全体を、人間の語法で語り切ることができたなら」という問いにつながるので、チューリングマシン(計算可能関数)などの領域にも関わる問いになるのかもしれない。ここまで考えて、なにか少し気が楽になった。



・浅い素潜り


気が楽になってしまうということは、そこから先に進む元気がなくなったということでもある。専門的なことをしている人たちに言わせれば「ここからが面白いのにもったいない」と言われてしまうのかもしれないけれど、門外漢としてはこれくらいが精一杯である。



下手なジェンガのように、理屈を積み上げていけばいくほど、適当な土台によるぐらつきがひどくなる。基礎的な勉強をもう一度し直したほうがいいのだと思うけれど、それが自分が面白いと思う部分だとは限らない。むしろ面白いと思えなかったからこそ基礎ができてないのではないか。



こういうやり残し、復習、振り返りがどうも苦手で、好きでやっていることのはずなのに、やらなければいけないことの部類と同様のブレーキがかかってしまう。ということは、好きなことをして一見楽しそうにしていても、実のところは楽しみきれていない、満たされていないということなのかもしれない。



ただ、根拠のないモチーフ、誰にも求められない動機付けというのは、「やらなければならないこと」とは真逆の「無駄」な振る舞いを生み出すことができる。それなら一般的な「お勉強」にもあたらないので、上記のように適当に考え続けることができて楽しい。



そうやって、息の続くところまで潜るのを適度に繰り返しているくらいのことが、自分の身の丈に合っているのかもしれない。

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