駄文2017/12/26

・夢幻の開始


手足が痺れるほどコーヒーを飲んでも、気分は晴れない。依存は生活の質そのものが向上しない限り解消されないというけれど、裏を返せば生活の質を依存によって補うことで、生き長らえているということでもある。



今の自分の状況から何を学んだり、見出したりしたらいいのだろう。「他人に関わってはいけない」「自分に期待してはいけない」それ以上のことを見出せないのが間違いなのであれば、これからまた違った種類の間違いを犯すだけだ。



それは暗い生を生きていくという悲惨な覚悟である。しかし自分でそれを終わらせるような、手間をかける程の張り合いもなく、それゆえに明るくてくだらない、鍵の開いた独房の気楽さもある。



とくべつ優れた頭脳でもなければ、鑑賞に耐えうる容姿も持たず、それでいてどんなに恵まれても満たされないのであれば、そこには自分をどのようにも呪うことができる自由がある。それを選択し終えてから悪夢にうなされるまでの間の、湿ったまどろみの中にたたずむ。



・ペソアのこと


こういう態度は何も自分が発明したものではない。ポルトガルに高名な先達がいて、彼がお酒もコーヒーも浴びるほど飲んで肝臓を病んで死んだ後、大量のテキストが見つかって刊行される。その書物は数十年後の母国を革命に導いたり、外国の誰かしらの魂をさらっていったりして、今も生きている。



何年か前の冬の日に、帯広美術館で演奏した二人の音楽家に呼ばれて、地元の屋台で正体無く酔っ払った時に言われたことは「君はペソアを読みなさい」だった。帯広図書館にあったのは「世界の詩」みたいな全集のうちの1巻で、内容はともかく、複数の偽名を使って作風も変えていた、という説明が気に入った。



しかしその代表作を読んでみると、想像を超えた深刻さでその偽名を用いていた。それらは「偽」名ではなく「異」名たちと呼ばれていて、もはや彼の生活は実在の人物よりも、彼らによって成り立っていたという。



・クリーチャー


その作品から、自分で狂気を組み立てることができるということを学んだ。狂いは大きく2種類に分けることができて、ひとつは方角の狂い、もうひとつは距離の狂いである。



その狂いを調節(変な言葉ですね)していくと、ある場合において、自我が盲点のように消失する組み合わせがある。都度変化していくその消失点を追っていくと、歪んで膨らんだ蟻塚に触手が生えたような、みっともない何かが建築されていく。



それは自走しながら己を組み立てていく狂気であって、数式を持たないアルゴリズムとか、生命の如く迸る熱の代弁者とか、そんな感じのやつだ。それを事あるごとに、つぶさに見つめ、全身で抱きとめて、泣き叫んだり思い出し笑いしたりだけして過ごしていたいし、それが一番無害な立ち回りであると思う。まさかそんな幼稚な化け物とその従者に、とって喰われる人もあるまい。



・努力したくない


しかし一般的なビデオゲームの例にも漏れず、徐々にその営みは難易度を上げていく、ある段階からは、一定の条件を満たさなければならず、それは「鍛錬」とか「努力」などといった、自分がいい年まで忌避し続けていた属性を持つものばかりだ。あれだけニヒリズムを謳ったペソアですら、墓標には「ちゃんと真面目にやれ」みたいなことが書いてあるらしいし、うんざりして、がっかりする。



洒脱な「倦怠」ならまだしも、単なる「怠惰」ばかりの、できるだけ何もしたくない人間、無行動が行動の指針である人間に対して、狂気はいい顔をしない。冬の湖で一人ずっと笛を吹いて警察を呼ばれたり、死後ゴミ箱から壮大な絵巻物が現れたりという、ある種のキャッチーさを結果として提示してみせれるだけの、本人にとっての真剣さ、切実さを要求してくる。狂気のそういう態度が、端的に言って気にくわない。



常軌を逸した方向性でも量でもない、第三の「狂い」が考えられないだろうか。つつみ隠さず言えば、自分にとって都合のいい狂い。愉快でたやすくて、自己完結が可能な狂い。妥協されたものでありながら、他の誰にもできない祈り、願いの対象としての狂い。それを「消失点なぞり」とは別に、あるいは並行して、見つけることができれば、それを暫定的な幸福の領域へ、対象として収めることとする。



・ふり


徒然草や内田百閒いわく、狂ったふりをしている人間は、既に狂っているという。では狂ったふりと普通のふりとの境目は何だろうか?どちらも行動が思索よりも存在(主に社会的存在であるとしても)に強く働きかける様を言っている。語ることは思うことよりもその「ふりが見える」点で行動である。



普通であるということは、目立たず、気にも止められず、不安を煽らない、そしてありふれた振る舞いを指すのだろうか。それでは自分がいくら狂ってみせても、過激なことを言ったり、または実行してみせても、目立たず、気にも止められず、不安を煽らず、ありふれている以上はそれは普通のふり、普通の振る舞いであるということになってしまう。したがって、わざわざ言わなくていいことを言うこと、突拍子のない脈絡のないことをすること、奇をてらうこと、そのどれもが、普通の振る舞い、つまらない振る舞いであるわけだ。



では誰が狂えるのだろう。あるいは何に対して狂えるのだろう。「どうしてそんなことをするのか」分からない方向性の狂いでもなく、「どうしてそこまでするのか」分からない量の狂いでもなく、別の狂い、あるいは別の「分からなさ」、そういうものを、しかも苦心惨憺することなく手にいれることが出来た時、はじめてそれは「狂っている」ことになるのだろうか。それまでは永劫、よくある普通の人の物語が続いていく。

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