駄文2017/12/22

・実りを授かる


延々と理屈を並べても、そこから何かを得られなくては虚しい。一方でそれは、自分の都合に過ぎないので、ことさらに求めるものでもないように思われる。少なくとも第一義ではない。第一義は書くことである。



その何かを、いつ得られるのか、ということも関わってくる。種子も土を吸わせてから齧った方がいい。実りの季節まで耐えることができればの話ではあるが、寒さと飢えをごまかして、今までもなんとか生き延びてきたのだったから、諦めを通り越して、忘れた頃に芽を出しているかもしれない。



ともすれば、耕した者と食う者が、必ずしも一致しないことがあるだろう。ただそこまで悲劇的なケースは稀で、たいていは有り余る富の出現に、虫のように群がることで、難を逃れてきた気がする。



・危機に瀕して


その夜になってから本を読んでも、望む相手に声をかけられても、間に合わないことがある。餓死寸前で食べると死ぬことがあるように、とどめを刺すことにもなりかねない。逆に、全く求めない時に、何に使うか分からないものを、どうも捨てられないでいることが、そののちの明暗を分けることも、往々にしてある。



脅かされ追い詰められた脳は、走馬灯のように過去から打開策を引きずり出そうとする仕組みを持っている。その最適解が、一度しか観たことのない劇のタイトルであったり、買い置きには小さすぎるサイズのマヨネーズだったり、LINEスタンプの押し間違えだったりする。



そもそもが危機的な状況を回避しようとするべきなのだけど、実際その渦中にいると、なかなか自覚がないものである。浜に打ち上げられてから「あっ、溺れてたのか」などと、のんきに思うこともある。



・哲学


哲学が、偏った認識をほぐしてくれるという体験がままあって、漫然と死にたい気持ちで過ごしていた頃に、レヴィナスの「神の不在」(全知全能の神さまが、どうして迫害された信者たちを救ってくれないの?)について論じた文章を読んで、苦しさが、痺れるように引いていったのを今でも覚えている。



別に信心深いわけでもないので、神様がどうのというより「ロジック(抽象的な思考)だけで、ここまでいけるもんなんだな」という衝撃が強かった。



最近になって、レヴィナスの短い論考集を図書館で見つけたので読んでみたところ、そのいわば元ネタは、マイモニデスという人の「完全無欠の神さまなのに、どうして創造なんてするの?」という議論だったということが分かった。



・ジーニーについて


物理的には何も大きなことが起こらないので行為と呼ぶにも曖昧な一個人の「思索」が、当時から現在に至るまでの情報インフラによって時空を超えて、田舎の無職の元へやってくる。こういう力学を感じる(これも抽象的な思考ではある)時、心の底から「ありがたい」と思ってしまう。



「グランドホテルブタペスト」や、くるりの「ブレーメン」の歌詞のように、人間を経路としてその先へ行こうとする何者かがいるとして、それを神話素とか、物語と呼ぶのだろうか。



何年か前のTED talkで、作家さんがその何者かを「ジーニー(精霊)」と呼んでいて、トム・ウェイツが高速道路を運転中に来たジーニーに「悪いけどレナード・コーエンのところに行ってくれ」と叫んだとか、別の詩人が農作業中に舞い降りたジーニーを逃すまいと自宅の机まで走っていざ書こうとしたら尻尾(詩の文末)からだったとか、そんな話をしていたことを思い出す。



・解決できない悩み


人の悩みを聞いていると、たまに自身が気づかないうちに哲学だとか詩心の領域に突入してしまっている人がいる。一番恐ろしいのは、それをどのように言えば良いのか分からないばかりか、それを他人に言うことによって、問題が悪化する場合があるということである。



一人では解決できない問題が、一人でしか解決できないのであれば、打つ手がないように思われる。しかし、何かがきっかけで、その人を神話素や物語というジーニーが駆け抜けていくことによって、霧散していく問題もある。作品が意図しなかったものを、見出す側が導き出すことさえある。



あるいは、まったく解決はできない代わりに、猶予が発生する。それも人の寿命を大きく上回る規模のもの(恩赦といってもいいかもしれない)が発生すれば、その人の生き長らえることの罪は和らぐ。ただし、その代わりに更に古い問題が呼び覚まされることもある。



・手段を選ぶ


広い意味での理性を、霊感とも呼ぶことが出来るなら、「霊≒礼≒例≒令」なのではないか。などと適当なことを考えたりもする。物事の関わりとその複雑さだけが、万物のものに存在し、かつ実体を持たない。



しかしその程度の議論であれば、異口同音に歴史上で繰り返されているらしい。自分にできることは、その手垢の付いたロジックを、この世に一度も現れなかった異常な(そしてその点において他の全てと等しい)個体として、実践して失敗してみせることくらいしかない。



そんなことで、完全にとはいかなくても、多少穏やかで、苦痛の少ない生を送れるようになったら、こんなに楽で嬉しいことはない。どんなに楽をしようが、良いことが起ころうが、拭いようのないしんどさから、逃れることができない事実は変わらないのだから、自暴自棄になるのでも、健康を損ねるのでもない手段を、できるだけ取っていければと思う。



通り抜ける者のある身でいられるように、書き、読み、遊んで暮らしたい。

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