駄文2017/12/20

・去年を振り返る


体調優れず、カフェインの効きも、いまいちである。最低限のことはせねばと思うけれど、週半ばで気力が潰えるのは厳しい。倫理観を軽々超えて怠けてしまうので、社会的な責任のある立場でなくて良かった。



一方で、頭の中はどんどん現実離れしていく。あと一週間で、諸々の苦役から解放される予定なので、もう気持ちが先走っているのだろう。だが、そううまくいくものだろうか、と不安がよぎる。まあどうとでもなれだ。



年末年始は奥さんの実家で過ごすのが恒例となっていて、そういえば本格的に日記をつけるようになったのが、去年のお正月からだった。それで当時からの日記を通して読んでみたところ、なんというか、よく延々とこんなことを書いてきて飽きなかったな、という印象である。



その瞬間は真剣だったということは分かるのだけれど、振り返るとどうも冷めた目で見てしまう。そしてとにかく読みづらい。きっと今書いているものも、しばらく後から見直すと、同じような思いをするのだろう。



・継続と力


「継続は力なり」というのは、あまりにその仕組みを省略した表現で、継続が力たりえるのは、その中で気づきを積み重ねることができる可能性があるからだ。ただ単に何かを継続することで何らかの上達があるなら、30歳を過ぎた人は総じて、呼吸の達人になれてしまう。



その気づきと実践を意味する、PDCAサイクルの後半、CheckとActionにこそ「力」が発生するということなのだろうけど、同時にCheckとActionには「力」が必要である、ひいては「継続が力たりえるには力が必要である」ということも、言えるのではないだろうか。



だとすると、そのサイクルをはじめに回す「力」はどこからくるのだろう。自分の場合に限っては幻覚であったり、勘違いであったりするのだけれど、誰しもがそうではないようにも思われる。



・成長と制限


文章や演奏は相変わらずだけれど、スケッチについては、これは一年前よりもマシになったということを、認めざるをえない。それが証拠に、当時は会心の出来だと思えたものも、今見ると残念な感じがする。



毎日ではなくても、惰性でも、継続したことによる効果が少しでもあると嬉しい。今一番それがあるのがお絵かきなので、逆にもう少し負荷をかけても良いのかもしれない。



時間や場所の制限がなくなれば、もっとそれらしい物を作ってみたい一方で、現在ある制限を言い訳に、出来ることをやり切っていないのではないかという気もする。その場合は、どれだけ制限がなくなっても、これ以上の成長は望めない。



・幻覚的幸福のラリー


幸か不幸か、成長がなかろうと、生活は続いていく。本当は力の増進など無くたって、安穏に暮らせていけたらそれでいいのだが、星の巡りによってはどうしても、不確定因子にすがらなければいけない。



特に他者に対して何らかの要求をする時にその傾向が顕著で、これからどう(良く)なっていくか、という「見込み」を出さなければならない場面というのがある。望ましい絵物語を披露してみせるためには、本人がまずその幻を信じ込まなくては道理に反してしまう。



または、成長と呼ぶほどではないものの働きもあるだろう。順応や、諦念めいたものが、問題を解決したり、無毒化することもある。そこにも継続的な状況が前提としてあって、意図的ではないものであっても、変化という意味では途絶えることがない。



毎分毎秒、膨大にそれも無尽蔵に、変化し続けている万物のうちの、感じることができるか判断することができる程度、ほんの一握りのものを「変化」と呼んでいるとして、そのうちの望ましい幻の顕現をもって「成長」と呼んでいるのだとしたら、人間の営みというのはなんとちっぽけなものだろう。



そう嘆いてみても、そのちっぽけなものから逃れられないのでは余計につまらない。頭の中のゲームなら、そのルールを書き換えることができないか。それによって、あたかも優位性を持った個体であるかのように、「参加」することができないだろうか。



ただし、この場合の優位性というのは、同時代的な他者に対してではなくて、従来的な枠組みに対するものとする。つまり、何かしらいい方法があるのだとしたら、(汎用性があるかどうかは別にしても)秘伝として門外不出にするのではなく、かえって遍く共有されることによって、その真価を発揮するように仕向けることも可能なものであれば、なおよろしい。



いや、新しいルールは既得権を脅かす。唐突に社会を侵食しようとすることには、本来的ではない反発が起きるであろうことは、歴史が何度も証明している。あくまで一個人として、未だ知られない抜け道を暴露して、問われれば答える程度にして、流布することなく伝播する程度でいい。



何も社会が良くなることが第一義ではない。個人の脳内の幻覚的認知が、各々にとって快いものになればいいのであって、その結果社会が良くなることについて、引き止めることはしないというだけだ。



しかし、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉もあるわけで、もしかしたら順番が逆なのかもしれない。あるいは自己と他者の間でラリーされながら育っていく幸福というものがあり得るのかもしれない。



ところで、こんなことばかりを考え続けることに、世界や個人の幸福に寄与するところがあるのだろうか。

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